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2016-12-16 [長年日記]
_ [料理] 結局、ナーン。
ローストチキンやサラダ菜、薄卵焼きなどをラップするのに、一次発酵だけさせたパン生地を麺棒で延ばしてフライパンで焼く。冷蔵しても一週間以上柔らかいので大変気に入っている。例によってふすまパンミックスで作っているせいかもしれないが香ばしい。トルティーヤ生地やチャパティと形は似ている(何度か作っているうちにだんだんきれいな円に近づいてきたので尚更)が、それらは発酵させないので明らかに別物ということになる。だが、そうするとこれは何なのか?発酵させて薄焼きにした円いパンを作っているのがこの世界に私ただ一人だなんて、寂しすぎる…というわけではないが、それはありえないだろう。するとこれには名前がなくてはならない。
ネット上を漁りまくって、結論。「これはなんなのか」<- それが正解。これは「ナン」であるとしか言いようがない。発酵させた薄焼きパンはナンであるとしか今のところ言えない。パキスタンのナンは円形だと言われる。異説もあるようだが、どの家庭にもタンドリーがあるわけではないというのは確かなことと思え、そうするとフライパンで焼くのに適した形はやはり円形にならざるをえまい。それはナンなのだ。ただの親爺ギャグではない。
_ 夜になってだいぶ冷え込んだ。何を夕食に取るべきか決まらなかったので結局は鳥腿のぶつ切りと鳥団子、白菜で鍋となった。ポン酢とゴマダレと。食べながら「モーガン・フリーマン時空を超えて」の録画を見ていた。「ロボットはどこまで進化するのか」。必ずしも悪い未来を語るばかりではなかったが、印象に残る言葉は多くあった。ロボットが本当に進化するためには感情を獲得せねばならない、という言葉はそれだけでは強い既視感を想起するばかりだが、その根拠として、指を怪我したとき「指が痛い」と感じるのは感情、あるいは私の好きな言葉に置き換えるなら、感情移入の能力のため、というのには唸らされた。さもなければ、痛覚は脳で感じるのだから「指が痛い」とは感じないであろう、というのだ。指から血が出ているのを見つつ脳で痛覚を感じた時に(「指を怪我したために痛覚が刺激されている」と感じるのではなく、と言いたかったのだろう)「”指が”痛い」と”指”を主格として痛みを表現するのである。指が痛みを感じているわけではないのに、だ。このように感情(移入)という能力があればこそ環境の変化にうまく順応することができる、というのは正しいことかもしれない。そしてこのことを認めるなら、海の中にそれ一つだけぽつんと頭を見せている孤岩を見て「まるで自分のように淋しそうだ」とか、世界を真っ赤に変えている激しい夕焼けの中で「夕陽が泣いている」などとかいうような、無機物にさえ感情移入することのできる人間にだけ備わった能力がいかに人間を人間たらしめているかがわかる。そこに気付くことは、まるでロボットを作ることにより人とは何かを知ろうとする石黒先生のアプローチにも似ている気がする。だから、感情移入することを忘れるとヒトはヒトでないものとなる。だが一方、そういう能力を得ることなく人工知能が繁栄してしまうことも可能性として捨てられるわけではない。言語を発達させる能力を付与したロボットたちは彼らの会話の中で人間には知りえない彼らだけの言語を発達させていく。それは「論理記号が二つしかなく、関係代名詞が十三重以上に入り組んだ」言語だったりあるいはすべてのジョイント部を使ってコキコキと音を立てる「関節話法」かも知れないわけだ。さらに、ロボット同士は完全に同じ情報を共有することができてかつかれらが感情を有さないなら、彼らが全体にとっての最適化を目的とした場合その遂行は人間たちよりもよほど上手に達成するだろう。少なくとも彼らは列への割り込みや駆け込み乗車などはしないはずだ。そのような「社会」において人間と言う存在は、おそらく社会の敵とみなされる…。あるいはまた、複雑な現象を人間以上の能力で解析できる人工知能は、人間にはただの不規則としか思えない現象ーたとえばたかが2つの振り子を繋ぎ合わせた連成振子の運動でさえそうなのだがーの運動を記述する方程式、じゃなくてその解を導出することができる。つまり人間には扱えない数多くの変数をハンドルすることが彼らにはできるのだ。と同時に、”彼ら”は人間にとってはカオティックな現象ですら多少複雑な解の導出のようなものによってほぼ完全に記述できるのでは、という可能性を示そうともしている。それは最終的にはラプラスの悪魔を呼び出す呪文を見つけたということになるのではないだろうか?いくら考えても尽きることの無い未来への不安であり、逆説的な希望でもある。
_ [音楽] チューブラー・ベルズ2003、マイク・オールドフィールド。
こういうのが出ているとは思わなかった。チューブラー・ベルズの最初の部分は映画「エクソシスト」のテーマ音楽として余りにも有名なわけだが、その後チューブラー・ベルズは微妙にモチーフを変えて合計三つ作られ、さらにミレニアム・ベルが作られてこの作品で合計5つ、オーケストラ版を入れると6つにもなってしまう。本作は最初のチューブラーベルズとモチーフはほぼ同じで楽器構成は少し違う。それぞれのフレーズのニュアンスは本作の方がより巧妙に表現されているように感じた。それは、最初のチューブラー・ベルズが全て20歳のマイク自身の演奏で多重録音によりつくられたのに比べて本作は50歳のマイクのそれ、と言う人生においても演奏者としても円熟の極みにある人の演奏であるということの違いゆえに当然なのだろうが、聞いていると50歳のマイクの演奏はまるで20歳のマイクの作品を尊重してひたすらそれを、演奏者としては未熟だった20歳のマイクよりももっと豊かな表現で「より正しく」演奏しようとしているかのように感じた。そのことに(たぶん勝手に)感動しながら、パート1終わり近くの楽器名の紹介の声が前作よりも高らかでより印象的であることや、ピルトダウン人(本作では洞窟人となっているが)がひとりごとではなく二人の会話のような発声をしていることや、曲の終わりはやはりやぼったいアイリッシュ・フォークのセイラーズ・ホーンパイプであることなどにニヤリとせざるを得なかったのである。
読み返して思ったが、指を切って指が痛いと思うことを指への感情移入だと見なすのはちょっと強弁だと思った。
孤岩が冷たい海水に浸っているのを見て寒さが身に迫ったとしても、それは海水に指を浸して冷たいと感じることとは異なる、と言うこと。