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2017-06-18 [長年日記]
_ キュウレンジャーもエグゼイドもない日曜の喪失感よ…。幼い頃も日曜の朝のテレビは楽しみだった。「悟空の大冒険」が好きだった。スポンサーの日糧パンのCMも面白かった。世界中、どこへ行ってもパンでした。
_ ここ数か月、「婦人公論」を買って読んでいる。ほかに定期的に購読しているのは日経新聞位だから、愛読誌は婦人公論、ということになってしまう私(いわゆるおっさん)である。興味を持っているのは小保方晴子日記なのだが、最新号の記事を読んでいると、「どうして柏餅にだけ味噌餡があるんだろう」なんて、研究者らしいとも言える純粋な興味が示されていて、これまでの経歴や事件の顛末はともかく、本来この人はのんびりした人なんだろうな、などと思ってしまうのだ。この人を中心とする事件のことを思うたびに、研究者の倫理と言うものを考えざるを得ない。データの捏造の問題もあるが、近年は他者の成果をITの技術によっていともたやすくリファーすることができるようになった。そのせいで、自らの都合に合わせてまるでコラージュのように著作の一部を容易に引用することもたやすくできるようになった。本来著者がどのようなコンテクストでその部分を提示しているかを省みることなく。そのことに罪悪感を抱くものは現代ではもはや少数と言うことなのかもしれない。それはオリジナルの著者に対する敬意を欠いた行為であり、私自身は自らにそれをできる限り禁じているつもりなのだが、実はそのことに対して共感を求めることは間違っているのかもしれない。どこまでがグレーでどこからが犯罪的かという線引きは、ヒトの能力の範疇を越えているからだ。だから、他人に対して、私がフェアだと思っているような行為を求めるのはよした方が良いのかもしれない、と思う。このようなことで心を疲弊させるのは愚かなことだ。一方でこうも思う。コンテクストを考察して引用するということは読解力や想像力あるいは著者への共感能力などを伴う高度な技術を必要とする。それはたとえば理系一辺倒で育ってきた研究者にはなかなかできないことなのかもしれない。私自身もそんな育ち方をしてきたように思われる。ディベートと文学、そういったものは遅くとも大学時代に、そして共感能力は一生を通じて教育されるべき事柄だったのだ。