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2012-06-15 [長年日記]
_ 数日たってから過去の日記を埋めるようなことはやめた方がいいのかもしれない。が、止まらんのだ。とある意図があってしょーもない資料を作って人に見せるということをやってる。「見る」(あるいは見ない)ということが含まれていれば何でもいいような縛りともいえない縛りを自らに課して何かネタをあさっている。そのことによって、自分は何を見たがっているのだろうか、そして本当は何が見えているんだろうか、みたいなことにあらためて思いを致していたりする。こういうことをやってるときの自分はかなりエネルギーを使っている。あとでぐったりしたりしないようにしなくては、と思う。パワポの害悪はクリティカルシンキングを妨げることにもあるが、資料を作る方は結構クリティカルな思考をしてたりする。それを見て思考の妨げになるというのは、見る目が無いことを暴露しているようなもので、国語の授業を暗記科目のように思っていた人の言うセリフではないのか。しかし使える表現が限定されているからこそ文学の鑑賞が学術的なものとして成り立つのかもしれない。限定されたツールで表現しているというルールの中で、作者はどのような意図でその表現を「選んだ」のかと考えることは解法がありそうにも思う。でもどんな方法でも、となったら犯罪捜査なみに広範囲の調査が必要となることだろう。学問の世界であっても、調査にかけるべきコストは有限なのだ。かくして、全てを物語っている情報は解釈することができない。それは確かにクリティカルシンキングには遠いものともみえる。
とある機会があって、品質管理関連の先生の講義を聴くことができた。そのとき、田口玄一さんがお亡くなりになっていたことを初めて知った。今月の頭だ。線点図の使い方で悩んだことや、禅問答のような言葉など思い出す。友達と言うことではないが、友達のような人の死には悲嘆ではなく思い出をもって弔いたいこと、と思う。とりわけ私にフィッシャーを学ぶきっかけを与えてくれたタグチメソッドに敬意を表わしたい。これからのこの手の分野がどう展開していくのかも注視していきたい。現代のフィッシャーやゴセットの登場に注意を払いたい。