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2012-06-23 [長年日記]
_ 放送大学面接授業「古事記を楽しむ」一日目に参加。今回は特に宿題とかもなかったのだが、授業中にちょっとした古代文学クイズが出た。以下の空欄を埋めよ:
・710(和銅3)年・平城京に遷都
・712(和銅5)年・「(1)」成立
・713(和銅6)年・「(2)」撰上の詔
・720(養老5)年・「(3)」成立
・759(天平宝字3)年・「(4)」の最も新しい歌、この年
・905(延喜5)年・「(5)」成立
古代文学ということと、撰上とか歌とかいうヒントを利用すると(2)が風土記で(4)が万葉集だろうということは予想できた。古事記の授業だからどこかに古事記と日本書紀を入れねばならないと思うと、古事記の方がちょっと古かったかなと思って(1)を古事記、(3)を日本書紀かと思った。これらはみな正解。最後が分からない。「源氏物語」と書いたらやっぱり間違ってた。「古今和歌集」が正解。そーだよなー。今改めて見てみると、物語文学は竹取物語でも900年代の中盤だ。思ったより新しいジャンルだな、と思う。しかもわが国の物語のはじまりであるこれはそのフィクションである点に注目すれば、なんとSFだ。科学が成立する前だからサイエンスということは正しくないけど。この問題には大きなヒントが隠されている。今年は2012年。古事記成立からちょうど1300年という記念の年ということである。いまなぜ古事記なのか、という問いかけからそれを読み取ってほしかった、とは先生の言。
第1日目は因幡の白ウサギを例にして、古事記に書かれていることを丹念に読み取るという面白い講義だった。奈良の昔に古事記が編纂されたその当時には兎の神様というのが知られており、古事記本文中にも大国主命に救われた兎が「大国主命が八上比女をめとることになるだろう」という神託を与えることから、物語の最初からこの兎は聖なる存在として設定されていたと読み解く。書いてあることを正しく読み取るとそうなるのだと納得できる。だが、そのような兎の神が、はたして「わに」(この存在が何を意味するのかも問題である)をだますようなイタズラものであることとは整合するのだろうか。
ここにトリックスターという存在のことを想う余地がある。また、おどけたエピソードの末にある通過儀礼(たとえば赤裸に剥かれること)を通じて英雄的存在に昇華されるという典型(孫悟空の話を思えば良い)、複数のエピソードの習合といった成立の謎を思うことは楽しいことだ。しかし健全な文学という学問においてはおそらくそれ以上に踏み込むことをしない。同時代の遺物を考古学的に科学したり、兎神モチーフの編年や地域分布などを民族・民俗学的に分析することにより次第になされていくことなのだろう。
文を読み解く場合に前提としていることがある。それはその文を記したものが論理的な思考をする存在であり、かつその文が「何らかの意図を」他者に伝えようとするものである、という前提だ。そこを間違えるとそのあといかに精密な分析をしたとしても無駄になる。もちろん「なんらかの」意図ということだから、偽書というものも考察の対象となるのだが、こちらは表面的な記述からさまざまに裏を読んでいく複雑な作業を必要とする。逆の言い方もできる。これらの前提に合致しないものは文学の対象とはならない、という言い方である。まあ読み解くことができるものが読み解くべき対象であると言っているにすぎないのだが。
_ 帰りは弘明寺から桜木町まで大岡川沿いに歩く。日ノ出町あたりの裏風俗の店が一掃されてからもう5年は経つだろうか。改装された飲食店などをちらりのぞいてみると、そこにはやはり往時のちょんの間の造りが残っていたりする。そういう記憶もいずれ消えて、ウォーターフロントに至る健全な遊歩道になっていくだろうか。それとも何かをきっかけにまた裏歓楽街として復活するのだろうか。横断歩道をもっと整理してくれるとウォーキングする側としてはありがたい。