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2013-08-21 [長年日記]
_ 夏風邪はだいたい治ったように思われる。
_ [映画] 「地獄門」
原作は菊池寛の「袈裟の良人」ということである。衣笠貞之助監督、1953年。力に物言わせて人妻・袈裟をものにしようとする武士・盛遠役に長谷川一夫。この有名な俳優の作品を俺は初めてじっくり見たような気がする。この作品は先日見た「新・平家物語」と同時代を舞台としており、どちらの作品に対しても平安末期の再現、特にその色彩の復元に腐心しているように思われたが、この作品はそれが素晴らしいように思われた。もちろん俺にはその正しさを評価することはできないので、その鮮やかさに、かくあったであろうかと言う想いを抱いたということに過ぎない。袈裟の良人・渡辺渡は理を重んじる義人として盛遠とは対照的に描かれている。袈裟御前は京マチ子。俺はデジタルリマスター版をハイビジョン放映したものをブルーレイに録画して視たのだが、アップになると肌の荒れが克明に見えてしまうのが物悲しい気もする。往時の女優業の宿命なのであろうか。しかしこの人が衣かづきの姿をしてる所作は堂に入っている 菊池寛は1943−1947の間、大映の社長だったとのことである。清盛入道に千田是也。この人は特撮大好きおじさんだそうだ。現在の感覚からするとこの物語が袈裟の身の上に起きた悲劇と見るには少々素朴すぎると言わざるを得ないだろう。だが、袈裟をめぐる二人の男の対照的な描き方には興味を惹かれた。
_ [読書] ユリイカ2012年9月臨時増刊号「平成仮面ライダー」
約1年ほど枕元に置いてたのを最近読み進めていった。さまざまな立場の論客が読み解いていく平成ライダーなのだが、読み進めていって、入江哲朗氏の電王論にたどり着いた辺りで、果たしてここまで読み解くことの意義はどこにあるのだろうか、という俺にしては素直な疑問に当たってしまった。一つの作品に対する論の展開の仕方は観賞する側の数ほどある訳で、そのバラエティを味わえば良いのだろうとは思うのだが、ここまでの背景情報を動員しないとこの作品は味わえないのか?というとそんなことは全く無いのだ。そうすると作品論とは作品を批評する論ではなく、作品に仮託して自らの問題意識を表明する文章、ということになるだろうか。同じ入江氏の文中には「解釈学的な枠組み」と「系譜学的な枠組み」という言葉があらわれた。解釈学とは古くは夢や神託の読み解きに始まって、おそらくはもしかしたらもともと意味のないはずのものに対してもその起こったことの意味をあえて問う立場と言えるだろうか。これに入江氏が対立させた系譜学は、本来は家系を調べるという限定的な意味で使われる言葉のようだが、特撮作品に対してこの二つの言葉を用いた場合、前者は作品として与えられた事柄を前提として受け入れて作品を味わう立場、後者はその作品が作られる背景やその作品に連なるそれ以前、あるいはそれ以降の作品との関連に主眼を置く立場と言えるだろうか。作品に表れるテクノロジーの可否を吟味したり、作中人物の考えを作中人物の気持ちになって理解しようとするのは前者であり、経済的な動機を含め作る側の意図や作るにおいての技術的な限界や前提などを丹念に調べるのは後者の立場に属するものと言える。この二つは、だからもともとは対立概念では無いのだが、作品解釈における代表的な二つのアプローチの仕方と考えればすんなり理解できる。前者の立場はそれを視聴する誰でもが依って立つことのできるものだろうが、それだけに解釈の結論は開かれたものとなる。だが、後者の立場に立とうとすると実は前者以上に厄介な問題が起こり、ある深み以上に進むためにはそれなりに多くの犠牲を払う必要が生じてしまう。なぜならば、前提とすべき背景情報は、それを求めれば求めるほど多くなっていき、その結果として結論は背景情報の多さによってむしろ収斂しなくなる、という(反)因果律的なパラドクスという罠が存在しているからだ(ただ、これが存在することは、因果推論の方法によって証明されるべきことだろうと思うが、経験的には歴史的事実とされることがらが歴史にまつわる情報の調査が進むに伴ってどんどん変化していくということがそれを示している)。さらには、それを追い続けることには「"奥が深い"シンドローム」というさらに人心を惑わす甘い罠がいつも存在し続ける。たとえば、俺が特撮をより楽しむためには古典芸能の知識が必要だ、と感じていること。これも系譜学的アプローチの持つ甘い罠に自ら囚われようとしている行為なのである。そういうわけで、俺は彼ら論客と並んで持論を語ることはないものとは思うのだが、自らの行為の暴走を自分なりに律する自分の戒律のようなものを用意せねばならないのかもしれない、という危機意識をちょっと持っている。体調悪い時に読む文章はこういう今を時めく論客の文章よりも、古典的名著とされるものの方が本当はふさわしいのだろうが、読んでしまったものは仕方ない。このせいかどうか、寝苦しい時間を数多くの懐古的・自省的な夢を見ながら過ごしてしまった。まあそういうことも酷暑の夏の終わりを思わせる雷鳴轟いた日の夜のことである。