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2020-07-22 [長年日記]
_ おっと日付変わりニコフ。火曜の夜あたりから赤瀬川原平さんの『老人力』を文庫で読んでいて終盤に差し掛かっている。1997-1998に「ちくま」に載った記事が中心となっている。この頃の赤瀬川さんはちょうど還暦の頃。初出から20年経って現在の私も何やらその老人力を授かる兆しの如きを日々感じており、そんな時に何か有れば便利な備えでも見出せようかと思って読み始めた。
兆しの如き、と言うのは、 取り分け、怒りという感情の処し方が近頃変容してきたように感じることなのだ。とは言え好々爺になってきたと言う訳じゃ無い。相変わらずどころかますます猜疑心は強く、細かいことは気になりだすと止めどなく、とても「趣味はヨガです」とか言えるようなもんじゃ無いほどに温厚な人柄とはかけ離れている。ただ優柔不断がそんな誤解を生むことはままあるので、近頃は不快感を隠すことを止めてしまったりもしている。そもそも感情に伴うサインというのは、それ無しだとあちこちで始まってしまう激突を未然に防ぐためのもので、不快感も「おっとそこから先は私の陣地ですよそれより近づくと攻撃しますよ」といった警告のようなもので抑える方がおかしい。長く人外のモノ(猫のことなんだけど)と暮らしたりモリスの『裸のサル』を読んだりしてそんなふうに思っている。それで人が離れていくのならそれが適正な距離というもんだし偶然時代も社会的距離などと称してそんな距離感を是とする方向に追いついてきた。
うん、ちょっと違うところにズレた。言いたかったのは、日々怒りを感じることは多々あるしその機会はさらに増えつつあるんだけど、なんかそれら一つ一つに真面目に向き合って正そうとするのは無意味では無いけど割りに合わない感じがしてきたんですね。どんなところにもモラリティが低かったりセンシティビティが低い人はいて、それをいちいちしつけ直してあげるようなことはタルタロスの仕事のようなものだと。怒るべき場面に遭遇して近頃思う兆しというのは、月並みだけど深い溜息だったり「まあいっか、しようもない」という諦念の如きであったり、「こいつ相変わらず脊髄反射で喋ってんな、自分が何言ってんのかとかわかってないな」とか言った諧謔なのだ。もうホント自分の力ではどうにもならん。自力でどうにかなることにだけ頑張って、愚かなことをいちいち正してやろうとするのはやめた。自分指導的立場にはいないもんでね。そしてそんなどうにもならないことはもっと大きな力に委ねてしまおうと。何もその大きな力が神様である必要はない。純粋に物理的な意味の力であっても良いし、時の流れや熱の循環やランダム事象みたいな法則や現象のことでも良い。些事にいちいち囚われて不幸にならないで済むように信仰が発明されたのなら、それに乗らない手はないだろう。
という訳で『老人力』だが、うん。思った通り、気がつけば手に入るこの力、敢えて「備える」なんて考えること自体間違ってた。櫻画報も読みたいな。