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2014-10-25 [長年日記]
_ 3週間空けて英会話教室。とっさの英語が出てこなくなって、ごく普通の例文を考えるのに苦労してしまう。フレーズを使って何かを言うときの例を考えるのに、ついつい小難しいことを考えてしまうのは如何ともしがたい。という話をgrapevineの上で聞いた(今日習ったフレーズ。うわさに聞いた、ということらしいが、何でブドウの木の上なのかわからない。マーヴィン・ゲイがそんな歌を歌ってたらしい)
_ 日経読んでたら「俺通信」という言葉を福光恵氏のコラムで知る。俺のこの日記はさすがに最近は一人称を「俺」にしているだけあって、「俺通信」の代表ともいえるだろう。どちらかというと、小学校入りたての子供が書くような、ただ起こったことを連綿と描き続ける稚拙な作文のような意味だ。こういう記事を押し付けられる身にもなってほしい、という愁訴の記事のように思われる。そういうメールや会話を出したりしたりすることも俺は決して少ないとは言えないだろうな、とは確かに思う。まあ時間の無駄と思ったら読まないでうっちゃる自由はすべての人に与えられているのだから俺は気にしないでひたすら「俺日記」を書き続けようと思う。繰り返すが、この日記に何か読んで得になることを期待しちゃダメだ。ましてオフラインの俺についての何かをguessしようとするのもあまり得策とは思われない。しかしもう10年以上書き続けているのだから、このデータの中から俺という人間が誰なのかを推定することは十分可能だろう。そしてその内面には良俗と相容れることのない暗い側面や醜い行為へのインセンティブを読み取ることもきっと可能だろう、とは思う。そのようにして俺がネットの上に残した情報から再構成される「俺」はどの程度「俺」なのか。その再構成された俺にもしも罪が認められるなら、その罪を犯す(犯した)のは俺なのか。古代の事実が、考古学的手法が発達する未来になればなるほど、一方時間的にはどんどんその事実の起こった時点から遠ざかっていく未来になればなるほど、一層その理解が進んでいくのはどういうことなのか。それは、情報が時を超える可能性を持つということなのか。では物質を情報化して、さらにまたその情報から物質を再構築すると、物質は時を超えることができるということなのか。これは何なのか。俺にはそのことの頭も尻尾もわからない(これも今日の英会話で出てきたフレーズ)。
_ [漫画] 村祖俊一「今昔物語」
村祖俊一さんと言えは80年代頃に中島史雄ととも三流劇画誌でロリコン青少年の人気を二分した(内山亜紀とかも入れるべきなんだろうか?)漫画家で、俺はどっちも好きだが村祖さんの幻想的な物語には強く惹かれるものがあった。今も昔の単行本を掘り起こして読んだりしていることがあるが、この人の新作がマンガゲットで無料で読める。今昔物語自体はあまり読んだことはないのだが、いわば二次創作と言える芥川龍之介の小説や溝口健二などの映画などの中で知られる話などもある。これのうちの40話を漫画化している。古典は良い道標になるのだ。これに沿って描き進むうちにその描き手は何か有用なものを必ず見出すだろう。すでに人類としての膨大な経験がデータになっている。その中からこれからの自分にとって有用なことを見出すのはもはや困難ではなく、倫理も哲学も処世術も皆総点検すべき時になっているように思われる。そのことは村祖さんの作品とはあまり関係が無い。ただ、楽しむにしくは無し。
読み手がどう感じるかはコメント以外わからんですし、俺日記上等と思いますが、 <br>公開するからには、コミュニケーションをどっかで期待している気がします。 <br>コメントでも「俺通信」ありますね。自分ですが。(^^; <br>
それはある。俺の場合しかも親兄弟の人や親戚の人々が読んでたりもしてさ。皆の衆、とりあえず俺今元気だから。