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2015-02-01 [長年日記]
_ 彼らは「日本の悪夢が始まった」と言った。日本人はどのようにこの理不尽な世界と戦うことになるのか。そんな風に2月が始まった。
_ USBハブをパワフルな奴に代えたことでいろいろ捗る気配。さしあたりwebカメラによる玄関監視再開。
_ 夜中の「ももクロChan」の録画見てるとこなのだが、お年玉争奪!新春カルタ対決。かなこ曰く「にゅーとんがリンゴで発見!」「ビタミンB!」ネタとしては面白いが、そう言われてみると、どうしてニュートンが万有引力の存在に思い至ったのか、その思考の流れがわからない。おそらく天体の運動を説明する際に発見されたことなのだと思うが、その同じ法則が、分有であること、つまりいかなる大きさであれ質量をもつ物の間に働くと、一体どうして考えられたのか。そこには摂理とか神の存在と言った超越的な概念があったのだろうか。超越的な存在がかくあるべしとしたことで法則が生まれるのならば、それはあまねく森羅万象に行きわたることであり、そのことを見出したニュートンはその超越者の思想を理解した人である、ということになる。そんな風に信じることができるなら、死んでも良いくらいのエクスタシーを感じるのではないか。法則を探す者はそのような快楽を知るジャンキーである可能性がある。
_ ↑「万有」と書くつもりが「分有」だって。タイプミス酷いな。分有引力。これでは法則にならない。
_ 同じようなことは、例えば、量子力学の原理がなぜ我々が目で見て取れる物体の運動を支配しているようには見えないのか、とか、じゃあ顕微鏡レベルで見られるプレパラートの下の花粉のような粒子は、果たして海の中で船底が揺られるときに受けるような力と同じような力を受けながら動くのか、とかいった、スケールが大きく異なる世界を比較した時に感じられる。もちろん、各々の法則が支配的になるスケールと言うものがあるのだ。万有引力があまねくすべての粒子の間に働いていても、体積と表面の比がどんどん大きくなる微粒子の世界になると、表面に働く力の方が質量間に働く力を凌駕する。かくして、牛乳をガラスのコップに注いで放っておいても脂肪球と乳清が分離することは無い。少なくとも変性してカードが凝集するまでは、脂肪球が重力の方向に集まりはしないのである。そういうことが細かく理解されないと技術と言うものは進捗しない。技術を進めるきっかけはファンタジーであるかもしれないが、ファンタジーでは技術は進捗しないのである。それが理解できないで技術に携わり続けようとするのなら、人が苦労して切り開いた知恵に”ただ乗り”する戦略しかない。そして、切り開く者とただ乗りする者との外見は普通見分けがつかない。そこに俺は世界が公平でなく理不尽であるという現実を見る。そしてそういうものだということを受け入れるのに大いに苦労した。さてそれが辛くも受け入れられたとして、ではそんな不平等で不公平な世界でどう生きていくのか。そう考えると世界の様相はがらりと変わる。だが、その世界が相変わらず価値あるものであることに、世界の広さを感じもするのである。風が止んだようだ。外に出かけるとするか。
_ トップページの画像替えた。昨日の日経に、橘樹郡衙のことが書かれてたのを読んだ。日本武尊東征の際海が荒れ、その際人身御供として入水したという伝説で有名な弟橘媛。その陵とされる富士見台古墳に因んだのが橘樹郡の名の由来だということだ。こんな重要なことを昨日知ったのである。早速出かけた。このときの画像は気が向いたら後日アップする。