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2018-08-05 [長年日記]
_ 乾燥機を使ってるわけだが、最近これが怠けている。なんか近頃途中で止まってるなと思ったら、ヒートアップすると警告も何も発しないで止まる仕様であるようだった。夏には多い症状ということだが、そんなの困るじゃないか。夏は大量に汗をかくから洗濯ものが多いというのに。俺だって頑張って暑い中働いてるんだからお前だって頑張って家事くらいやっとけよ。ここの家電買うのはもう止めようと思うのであった。もう少し早く気付くべきだったな。ただ、これ購入したのは去年の1月で、その夏はそんな症状には気づかなかった。確かに今年は暑いのだ。今年の夏は乾燥機が動かなくなるほど暑い。。。
_ という訳で乾燥機への怒りもそこそこにして出かけた。今週末まで通ってるジムはお休みなので、系列の別の店舗へ遠征。ヨガクラスに参加して体力があれば筋トレ…と思ってたが体力無し。8割くらいアラーナを含む立位のシークェンスで、慣れている常連さんたちはサッサとこなしていくのだが、こちらは力の抜きどころが一切わからない。なので力一杯やってかくの如し。夕方。風が涼しい。これなら乾燥機もちゃんと動くかな?
_ 帰宅。途中止まったのかもしれないけど衣類はしっかり乾いていた。脅しが効いたようだ。そして、めちゃ辛いカレーが食べたいなーと思っていたら、炊飯ジャーの中でそれができていた。そう。また炊飯器クッキングやった。うん、ちょっと塩が少なかった。まあそんなのは簡単に調整できるしな。暑い夏には暑いカレー。でも作る人は大変。そんなときに炊飯ジャークッキング。お勧めしたい。
_ なんとなくEテレを見てる。ウラジミール・アシュケナージの指揮。もうすぐドビュッシーの「海」をやるようだ。最初に聴いた「海」の指揮もアシュケナージだった気がする。「牧神の午後への前奏曲」を聞きたくてCDを買い、買ったばかりのCDミニコンポで聴いた。「海」には打ちのめされた。この曲に打ちのめされた。誰が聞いても海に聞こえちゃうだろうな、というものすごい表現。それ以来誰はばかることなく言えるのだ。「海が好き!」竜之介ちゃんのお父さんのシャツではありません。そういえばジムに出かけるときの電車の中では楽器を持った女の子がシベリウスの交響曲の楽譜を熟読してたなー。シベリウスも好きな作曲家だ。
_ 続き。牧神の午後への前奏曲が始まった。フルートが自分のタイミングで始める。アシュケナージはタイミングを与えなかった。この曲は誰の指揮でもこうなんだろうか?この曲をオーケストラが演奏しているのを見るのはもしかすると初めてかもしれない。なんだか全ての楽器が一つの生き物のそれぞれ一部であるような感じを受ける。どんな楽曲を演奏してもそうなのかもしれないが、このドビュッシーのある意味”いかがわしい”楽曲においてはとりわけその感じが強い。まるで体の柔らかい男女が交合しており、それぞれ互いの官能とタイミングを見計らっては体位を入れ替える楽しい夜のように。。。という妄想の果てに楽曲終わった。そして「海」が始まる。つづく。
_ つづき。「海」第一楽章後半。もうすぐ水平線の向こうに日が昇る…。音だけでこんなシーンを創ろうとしたクロード・ドビュッシーは何というオタクな男だったのだろう!そしてどらの音と共に第二楽章に入った。ここからは風と波が対話する。違った、波が戯れる。つづく。
_ 第二楽章。たとえば、この曲を映像化しようとして手塚治虫が採算を度外視して虫プロでフィルムを作るのである。それは「展覧会の絵」を超えるような作品になるかもしれない。そして当然のように富田勲さんがその音楽を作るのだ。そうするとまさにその音楽がこの第二楽章となる。風と戯れ岩にぶつかって砕けてはまた遊びを繰り返す波の映像と共に。なんか滅茶苦茶な例えだ。第三楽章始まった。つづく。
_ つづき。仮に音を消してしまったとしても、オーケストラの全体で「海」を表現しているのがわかる。ホルンの人が揺らす首は緩やかな波、バイオリンが小刻みに刻んでいるのは細やかな波。これが重なっているのだ。広い周波数範囲にわたる複雑な現象。これが自然というものなのだ。ドビュッシーはそれを作曲で表現し、数理物理学者はフーリエ級数や微分方程式やフラクタルで表現しようとした。そしてその風と波の対話も曲の上では終わろうとしているが、それは曲が終わっても永遠に続くものなのだ。終わっても終わらない、ドビュッシーの「海」はそのように作られた曲なのだ。
_ さらに続いてはドビュッシーの弦楽四重奏曲。これもまたとても好きな曲!ベートーベンのそれなんかとはだいぶ違う。アキロン・カルテットという女性だけのカルテット。ビオラの子、背が高い。おわった。