RSSフィード:http://alpha-ralpha.com/diary/index.rdf
2018-08-13 [長年日記]
_ 父の人のご機嫌伺い2日目。札幌はちょっと曇ってる。雨の予報。父の人は近頃漢字の読み書きに興味を持っている御様子。牽牛花が朝顔であるとか躑躅(ツツジ)は流石に書かないとか。で、「魚偏に春、夏、秋、冬」と書く漢字がそれぞれある」と。「春はサワラ…夏は?」と私。「ワカシ」と父の人。ブリの若いやつだ。そして秋がカジカ、冬がコノシロ。コノシロは食べたことないなあ。それから彼曰く「ワカシだけ漢字がないんだ」
いや、今、魚偏に夏って言ったよね?続く。
_ 続き。無い、と言ったのは、パソコンの辞書に無い、という意味だった。「だから作ろうかと思う。」お!?
彼の人の思惑は、魚偏の漢字の偏(だからそれを『魚変な感じの変』って変換しようとするなよiPhone! そうです。私の誤記の殆どはiPhoneの誤変換のせいなのです)と、夏という旁(つくり、これも書けるものでは無い)を合成しようということだった。「でも、夏という旁の漢字ってあるのかなあ」「榎」即答かよ。続く。
_ 母の人の墓参終わり。つづき。「以前『筆まめ』で自分のハンコを作ったことがある。背景を透明にすれば本当のハンコみたいにできる」とのことで、父の人はそういうアプリのリテラシーを私とは比べようもなく多く保持しているのである。それは尊敬に値するのだが、そう言えば30年も前に記憶を遡らせて思い出すに、とてつもなく変換に時間のかかる出たてのワープロソフト(それは例えば富士通のFM77に搭載されていたJWORDとか、英文ならwordstarとか、である。一太郎なにそれ背後霊?(それは百太郎。なんて美しい自分ツッコミ)という時代だ。使える漢字も多くはなかった。それでもそこだけ空白にして後から手書きなんて恥ずかしい、と思ったら、先ほどの父の人と同じ言葉が出るのである。「だから作ろうと思う。」というわけで、人は皆俄かドット打ち込み職人と化して外字を次々と作っていくのである。そしてそれらは多くの場合、環境のことなる別のパソコンにファイルや電文で渡した途端、?とか◻(←ちょうどいい具合に化けた)とかの見事な伏せ字となる悲しい定めの作業である。今やスマホに王座を奪われたかに見えるパーソナルコンピューターにもその黄金時代があった。しかしその黎明の頃、必要であればドット打ち込みも厭わない、そんな漢(おとこ)達がいた。私もその1人だった。しかしこのWindows10の時代に、eudceditとコマンドプロンプトに打ち込んで外字エディタを起動させ、嬉々として点を打ち込み始める漢が生き残っていた。漢字は「かんじ」ではなくこの場合「おとこじ」と読むべきでは無いのだろうか?父の人、あんたロックだよ。本当の漢だよ。流石俺の父の人だよ。それにしてもなんて楽しそうな…w 俺もこんな老爺になりたい。
_ できた!漢字(おとこじ)

_ その後、弟の人その1から電話。遺憾ながら今回は会えなかった。子ども盆踊りが中止で無ければ甥の人達共ども会えたかも知れなかった。電話、甥の人その1に代わる。会えずに残念と告げると特に憎まれ口を聞く事もなく「うん…うん…」となんだか大人しい。その2に代わると、やはり似たような反応。眠いのかと聞くとまだ眠く無いと言う。彼等も確実に大人になっていくのだろう。どんなに年を取っても大人になれないヤツもいる。いつの間にかことにテレビが流れている…嚥下体操がはじまっている…明日の天気は?