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2015-01-01 [長年日記]
_ 日付変わリリーズ(好きよ、キャプテン)。ハンズで偶然見かけた松山油脂のカモミールハンドクリームが俺の炊事で荒れた指先を瞬時に癒してしかもさらさらとベタつかないことに畏怖を覚えているところ。今年もたくさんの驚きがあることを期待したい。それだけが人に生きる活力を付与するものだからだ。
_ 空港のひと時。
晩飯の超大漁丼という奴が思いの外美味かった。でも見た目のインパクトがなくて画像撮らず。昨日の母のおみくじの神の教えを書いとく。
「難儀苦労のある時ばかり神の御袖にすがる気か
難儀な時の神頼み、平素(ふだん)は一向にふり向きもしないで、人の力の及ばぬ苦しみに行き合わすと、俄かに神様神様とさわぎ立てる。神様も可哀想だと思し召し御助けなさって下さるでしょうが、私共は平素から神様を敬い、其御心に叶う様正しい行いをしておかねばならぬ」
はじめの歌のような一節は神の独白とも、その代弁者たる誰かの言葉とも取れる。前者だとすれば、神は明らかに人に対して不平を申し述べていることになる。ここに俺は、ヨブに対する加害者としての神との類似性を見る。だが、神は果たして自らのことを「神」と自称し、自らの衣の袖を「神の御袖」などと称するであろうか?この点は問題とされねばならない。だが後者だとするなら、俺たちはさらに大きな問題にあたる。この一文の題は「神の教え」。神の教えを語る者とは誰なのか。さらに言うなら、この一節は教え諭す文体ではなく、素直に捉えるなら疑問文、あるいは疑問形を用いてなされる糾弾、少なくとも嘆息混じりで発せられた言葉なのである。神自身を差し置いてこのような言葉を発する権利のある誰か、とは一体誰なのか。この場合、その誰かは、「神の教え」と語り置きながらその実自ら信ずるところを、たまたまこのおみくじを引いた者、つまり俺に押し付けようとしているのであろうか。さらに言えば、「神様も可哀想だと思し召し…」などとあるを見るなら、この誰かは神の思うところを熟知しているという自負のある者である。それは人の分別をわきまえないことでないとするなら、そのようなことを語れるものは誰なのか。今年の初めは、こんな疑問で始まったのである。
_ s航空の便で帰る途中なのだが、手荷物検査で引っかかる。一つ目は保温容器。これは中身の確認で済んだが、もう一つはミニアイゼン。結局部分的にアスファルトの露出した札幌の街中ではいささか使いにくくて威力を発揮しなかったのみならず、客室持ち込みを断られて預けなくてはならなくなった。札幌の街中で滑って転んで怪我をしろと言われたわけではないが言われたような気がして気分が悪い。まあ確かに、便が出発するや、おもむろにミニアイゼンを取り出して手近のか弱い女性や男性の喉元に突きつけてハイジャックの暴挙に出る可能性が皆無かと言われれば、何が起こるかわからないこの世の中で可能性がゼロだとはいえないが、よくよくの事情がない限り俺にそれはない。むしろ同じ検査で羽田はすり抜けてしまったことを検査の品質のばらつきと捉えて同社は反省せざるをえないということになるだろう。俺も次は気をつけるよ。アイゼンでなくてスパイク式に変える。もともとそっちを持ってくるつもりだった。でも出がけに見つかんなかったんだよ…。
_ エアバスA330、WIFIつながるわテーブル広いわスペースも広いわコンセント使えるわで、これは捗る。さっきまでの怒りはチャラ。