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2014-12-31 [長年日記]
_ 1日早い初詣。
ついに大つごもり。みんな、今年もいろんなことがあったね。俺もずいぶん多くの気づきと、もしかするとそれをうわまわるかも知れないほど多くの物忘れがあったと感じてる。混雑を避けて1日早い北海道神宮へのお参りをした。それでも結構な人出があり、多くは中国系の観光客と思われた。母の代わりにひいたおみくじは中吉。神の教えを見ると、困ったときだけ神頼みする性根が気に入らん、といったような、戒めとも神の愚痴とも取れるようなことが書いてあった。俺は何だか新鮮な気持ちがした。
ちょうど昨日のこと、このごろ身の回りに何かと不運なことが起こることを母と語らっていて、俺たちにとって世界が理不尽であることに理由があるのかとか、不幸が起こることは何か俺たちが良くないことをしたからだろうか、といった会話となった。俺は、聖書の中に、そんな風に己が身の上に次々起こる災難に、本来は信仰の篤いものでありながらやがて神と対立した男がいたことを思い出し、そのことを話したのだった。ヨブの身の回りに起きた不幸は我が身のみならずその親族にさえ及んだものだつたから不幸自慢すれば誰にも負けないようなランクだっただろうが、それでもはじめ、ヨブの信仰は崩れなかった。彼の友人と自称するあの者たちがあらわれ、ヨブの不幸はヨブ自身の罪に原因があり、そうでないならそのような不幸は起こるはずもない、と彼に告げるまでは。それまでのヨブは、何が起ころうと受け入れる覚悟を持っていたはずだったが、それを失わせたのは、ある意味悪意のない、近しいものの言葉だったのである。このことはもっと広く知られるべきことだ。ヨブの友人は己の正しいと思っていたことを素直に告げただけであり、それがどれほどヨブを傷つける言葉であるかなど思いもよらなかっただろう。それが問題の核心だ。誠や思いやりから出たはずの言葉が、同時にその向かう側をもっとも傷つける言葉となるのである。放った言葉は誠に矢と同じで、回収するときは何かを傷つけた後であり、何も傷つけなかった時にはどこか彼方に飛び去ってしまうのみなのだ。それは、射手の信念が強いほど、そして放つ先への情が強ければ強いほど、より深く大きな傷を作るのである。しかも射手と獲物とではその矢の威力の感じ方も大いに非対称的であり、このアンバランスは問題をより悪い方向に転がす駆動力たりうるのである。さらには神的なものも必ずしも最善のやり方で人に報いるわけではないのだが、われわれはそのことをいかに説明すべきかの術を持たない。かくして「自然の行うことは全て善きことである」とか、「世界に生きることはそもそも全て苦である」とかいう開き直りにも似た絶望を認め、そこから再出発することになる。そうなったとき初めて、その開き直りは最早絶望とは言えなくなるのである。