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2016-07-02 [長年日記]
_ [放送大学] ドイツ語。
ドイツ語の学習には使命感がありながらそのために試験対策をすることが厭わしいので、通常試験の無い面接授業で少しずつ、そして楽しく学習しているのだが、そんな履修の仕方がこれでもう3度目になった。放送大学の面接授業には、第九を楽しむというシリーズの企画があり、今日はその発音を学ぶといいう授業に出てきた。実を言うと第九にもベートーベンにもあまりこだわりはなかったが、これを機会にそれらに親しむのも良いかと言う気持ちもあった。
それでその発音なのだが、良く難しいと言われるrの発音は、私はわりと得意なんだ。フランス語ならった時に、のどちんこ震わせるrの発音練習したので今でもよく震える。が、日本語のアクセントが音の高低でつける「高低アクセント」であるのに対してドイツ語は「強弱アクセント」なので、発声のための力の入れどころが違う。なので、眠くならずにはすんだが結構疲れてしまったのだった。けど、第九の一部だけでも歌ってみることができるようになるのは楽しい。ドイツ語は(フランス語もそうだけど)ほぼつづりで発声が決まってしまうから、初見でも読めるというのが良いところの一つ。ただし逆にルールは細かい。で、今日教えられてびっくりしたのは、「日本語の『かぞえる』の『ぞ』の発音の時には舌が上の歯(茎)の裏に付かないが、『ぞうさん』の『ぞ』の時はくっついている」と言う事実。言われてみて確かに、両者の発声の仕方をひっくり返すとなんかちょっと変だ。ちょっとだけど。まるで、日本語を習ってまだ数年しかたってない外国人みたいだ。面白い!こういうの研究するのはどういう分野なんだろう?そして、仮に人類の舌の先が二つに分かれていたり、唇がヤツメウナギの口みたいな形だったなら、その人類の扱う言語は驚くほど不思議なやり方で発音されるものとなっていただろうな、と思った。ちょうど、旧石器時代の人類が体の構造的に土器のような精巧な器具を造りえなかったように、それによって営まれる文化活動はかなり異質なものとなるのだろう。原理的には、言語や文化の変化には人類の肉体の変化に付随するものもあり得るというという訳だ。
授業ではやはり、合唱のプログラムに参加している方が多く、私が隣になった方もそのおひとりだった。3月に発表会があるんだそうだ。合唱は第四楽章なのだが、それまでの1−3楽章もずっと待っていなくてはならないらしい。まだいい。ドヴォルザークの「新世界」はシンバルの演奏がたった一か所あってタイミング外す、みたいな話がある。フランキー堺が「ああ新世界」と言うドラマでやってたのを良く覚えている。フランキー堺演ずるシンバル奏者みたいにそのシーンをずっと待ってたわけではなかったが。というわけで、合唱部分の楽譜を注文したのだ。それが面白かったら、バッハのマタイ受難曲も楽譜取り寄せてみようかな?だいぶ分厚いだろうけど。