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2016-07-15 [長年日記]
_ 世界が苦痛に満ち溢れているとはどういうことなのだろうか?苦痛を感じるということは、それが肉体的にであれ、精神的にであれ、望ましくない状態に置かれているということだ。私が”世界は苦痛に満ち溢れている”と考えたとき、今ここで暮らす世界とは別の、理想とすべきAnother worldがあると信じたがっていることになる。
これは矛盾だ。なぜなら、世界がもともと苦痛に満ちているという性格のものであるなら、そこに生まれてそこに生きている私は、なぜそこに適応するように生まれてこなかったのだろうか。
本当のところは知れないが、二通りの考え方が可能だ。一つは、Another Worldが実在すること。もう一つは、ヒトはそもそも世界に適合するように造られはしない、ということ。前者は、それが過去には存在していて失われてしまったのではないかと言う数々の伝承と整合的だ。だがもしもかつて実在したことが無かったとしても理想的な世界をイメージできるのだとしたら、それは重大なことだ。なぜならそれは実体と異なる・あるいは実体と併存する・あるいは実体への反論として、イデアがあるということを示唆しているからだ。いや、ある、と思わされているだけなのか。
自分がこの世界に適合していないというのは極めて信憑性が高い。だがこの世界に生きることに苦痛を感じているのはどうやら自分だけではないようだから、そして「誰にでも悩みはある」という紋切り型で時として私を傷つける慰めの言葉がもしも真実であるならば、誰もこの世界に適応しているものはいないということになる。何故なのだ?
思うに、それが遺伝子の企みなのだ。なぜなら世界の状況は常に変わる。今のこの世界に十分適合したものにとっては、変化した”次の世界”は望ましい世界とはならないだろう。だから絶えず変わる世界にあってそれでも生存し続けるためには、常に十分適応できていない状態のまま次に備え続ける必要があるという訳だ。十分適応できていない状態を続けていくことは確かに苦痛に満ちた生き方だろう。仕方の無いことだ。私の祖先は遠い昔にコノハナサクヤヒメとイワナガヒメの姉妹から前者を選んでしまったのだ。発芽して成長して花を咲かせて散ることを苦汁を飲み込みつつ続けていく他はない。苦痛に身悶えした挙句に咲かせる花はさぞかし凄惨な色合いで薫り高く咲き誇ることだろう。確かに一つの見物だ。