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2016-07-14 [長年日記]
_ 人を信じない、ということがかえって信頼関係を作る、ということ。これは私にとっては大きな発見なのだが、ヒトはすでにそのことを良く知っていて十分にそのことを活用しているのかもしれない。これに気付く前の自分は、ゆがんだ理念に支配されていた。性善説に立つことが正しく、どんなに不利益を被ろうと人を信じるべきだ、と。すべての人と仲良くすることが正しいのだ、と。中途半端な形で(と言うのは、それを教えるに足る教師がほぼいない・いなかった、ということだが)導入された道徳教育のせいなのか、父祖より続いた教えのせいなのか。あるいはさまざまなメディア、とりわけテレビとマンガによって安直に作られたドラマの影響なのか。これはある時点までは社会規範として有効だったことかもしれず、まさに社会学はこれに応えるべくして在ると思う。
かかる信頼の在り方は、”かくありたい”という理想としては良いかもしれないが、厳しい現実の中でもがき試行錯誤していて、重い肉体をまとい本能やホルモンの分泌に支配されている実在のヒトという生物の不完全さを全く無視した盲信と言える。別に進んでいがみ合えばいいと言うのではなく、その人についてほとんど何も知らないのにその人に全幅の信頼を寄せるというのは理にかなった行為ではないということだ。そんな風な一方的な信頼を押し付けられる方だって迷惑なことだろう。そして押し付けられた信頼に反した行為をしようものなら「あなたのことを信じていたのに」とか「そんな人だとは思わなかった」と、まるでその信頼を押し付けられた側に非があるような物言いをされるのだったら「信頼される人」とはなんと哀れな存在なのか。
ヒトの本性はもしかしたら善であるかもしれないが、その善を完全に体現できるほど賢明であるとは限らないということは前提としていい。ヒトを信頼しようと思ったなら、彼を良く観察して、彼が何を好み何を嫌うのか、彼には何ができて何ができないのか、彼の言動はどれほど一致しているのか、などを理解するべきだ。そうすれば彼のどこが信頼できてどこが信頼できないのかを見極められるだろう。そして信頼に足る面においてのみ彼と関われば良い。もしもそういう点が全く見いだせないならば、不採算事業から撤退するように関わりを断ち切ることもできるし、あるいは覚悟を決めて彼の成長を促す重い責任を果たす道を選ぶこともできる。この点で野良猫との距離を縮めるためのやり方と全く変わるところが無い。うかつに手を出すと洒落にならないほど痛い目に合うことを知っていたなら、たとえ引っ掻かれたところで「信頼を裏切られた」とは思わずに済むというものだ。もっともすべての”猫好きを自称するヒト”がそんな覚悟を持っているとは限らないが。
裏切られることを前提として、その上でどこで協調することができるかという均衡点を探りながら他人に囲まれて生きて行くこと。これは無縁社会と言われる現在にあってはほとんど唯一で確実な「絆」の在り方と思える。身内や友人を大切にするあまりそれに属さない他者への迷惑を思わないことを「絆」と”呼んでみる”ことよりはよほどデモクラティックで実害が少ない。もしかすると、そうやっているうちに互いの距離が次第に近づいていくのかもしれないが、甘い期待はしないことだ。信頼関係は血縁や住まいの近さや接触時間によって形成されるのではなく、それらは、その人の信頼すべき面と信頼できない面とに関する知識が増えていくのに有利な条件であるに過ぎない。ヒトは基本的に裏切る動物である。この世界が苦に満ちているという仏教の前提と同様に私を安心させるもう一つの重要な前提だ。