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2017-11-18 [長年日記]
_ 土曜の朝。ゴミ出しのあと、NHKラジオでラジオ文芸館。池澤夏樹「上と下に腕を伸ばして鉛直に連なった猿たち」のアンコール放送。私ももう一度聞きたいと思っていた。というよりも、この作品を収録した『砂浜に坐り込んだ船』のように、”リアルな”(と池澤さんの言う)死者たちと向き合う物語、あるいは鎮魂の、あるいは鎮魂を願う生者の思いの物語を、求めていたのかもしれない。死は私とは関係が無く、亡くなったものに対してはただ悲嘆によってではなく追想によって共感を寄せよう。エピクロスはそういう言葉を私に残してくれた。論理的な考えに従えばそのようにしか振る舞えないとしても、それは原理として正しいのであり、個別の喪失感への処方としては不十分なのかもしれない。
この物語は、若くして死んだ女性の「アンクル」(おじ)が、カロンを思わせる渡し守が川とも海とも湖とも知れない水上をあやつる船に乗って、その水の向こう側、つまり彼岸へと向かうところから始まる。誰もそれが本当にあるとは想像できないはずなのに、広く共有されている、この世からあの世への旅。これを想像して描いているこのくだりは冒険小説の手法に少し似ている。このシーンに相応しいBGMはシベリウスのトゥオネラの白鳥以外には無さそうだ。池澤さんの実父がシベリウスを愛した福永武彦氏であることをふっと思い出す。彼岸のホテルで少しづつ自らが生者ではないことを確認していく「アンクル」はやがてその姪(の魂?)に出会い、表題のおかしなおもちゃのようなマスコットの話など交えつつ、自分がこうしてここに来たことで姪にささやかな笑いを与えられたのに満足して終劇となる。記憶で描いてるからいろいろ違ってるかもしれない。それ以上を書くことはもうくどくどしくて略す、という体で物語は名残惜しい印象を残して終わる。今日一日はこういう調子に彩られて過ぎていくだろう。
_ そういう気分の中でおんな城主直虎の録画を見てた。いきなり栗原小巻さんがでてきてびっくらこいた。不遜を承知で書けば、まだ生きていたのだ、という驚きと喜び。築山事件はなかなかピンと来ない。つづく(←中村梅雀の声で)。