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2012-11-03 [長年日記]
_ [映画] 「続・エマニエル夫人」
1974年の前作から3年。おっと!前作の時の俺って12歳じゃないか。そうなのか。すると当時シルビア・クリステルは22歳。そしてそれから3年なのでこの続編では20代後半となってリアルでもかなり手練となっていたことと思う。ジャンの役者は前作のダニエル・サーキーからウンベルト・オルシーニという役者に変わっている。前作では夫(とのセックスシーン)はほとんど印象に残っていないが、続編では最低でも3度には及んでいる。名前から想像するにこの男はイタリア人ではないだろうか。こっちも相当な手練と見た。前作でマリオの手ほどきによって性愛の技術の手ほどきを受けたエマニエルは(そうだよ、『エマニエル夫人』と呼ぶと夫の姓がエマニエルみたいじゃないか。本作でもジャンが"Madam Jan!"と彼女のことを呼んでいる)、次なる獲物として処女・アンヌ=マリーを狙い始める。ジャンの獲物もまた処女アンヌ=マリーであるのだが、彼らの間には複雑な問題は起こらず、まるで石野真子の「春ラララ」みたいに3人仲好くセクスを実施して劇は終了する。前作で儲かったせいなのだろう、すごく映像のクォリテイが上がってる。舞台は香港からバリ。この作品を貫くのは欧州から見た異国情緒、女性側からの欲望の吐露であるが、この作を見て気付いたことは、エマニエル・アルサンの物語が最愛の夫を奮い立たせるための挑発的なそれであるという可能性だった。エマニエル・アルサンは作中のエマニエル同様に外交官夫人だったという。彼らの夜の喜びにさらなるアクセントを与えるために書かれたファンタジー。それこそが「エマニエル夫人」だったのではないか。そして本来は夜の夫婦の寝室の中だけで読まれた(もちろん作者エマニエルが自らの作を音読し、外交官殿はその文章を、誤解や偏見、浅い知識、登場する自分ではない多くの男性への嫉妬などともろともに喜びとしたのではないか?)この作品が公開されるや、世界中がそのファンタジーにハマったということなのである。
注。上記後半、特に()内は全くの妄想で書いているので、間違ってもWikipediaなどに転載してはならない。
_ 未来形。
日本語には明確に未来形と呼ぶべきものはなく、「〜だろう」とか「〜ことになる」といった表現はあるが、これらも時制の区別だけで使われるものではなく、推量とか当然の帰結をあらわしたりもするので難しい。それでWillとbe going toの区別の話。willは不確定性のある未来に対してつかわれ、後者はかなり確率の高い場合に使われるのだ、というのが今習ってるイギリス語の先生の言うところだった。我訊ねて曰く「しからば問わん。will と be going to、いずれやあまねく用いられん。willなりや」「しからず。おのおの持ちうるところ異なりてやある」そういうわけで、わたしはなんとなく両者が言い変え可能と思ってたのだがそういうことではなさそうだ。わかりやすいのはI wish I will...という決まり文句で、これをI wish I'm going to ...と言い変えたつもりになると、一体何の事だかわからないということになるらしい。言う人もいるよ。ただしジョークでね!ということなのだそうだ。無理やり意訳するなら、私は…するべき定めが我が身に起こることを望む、という感じになるのだろうか。それにつけても。間違った教育の害悪にも思いを馳せつつ、田舎の先生たちは自分でもよく知らないくせに偉そうに良くも誤りを押しつけやがったな、とつくづく思う。そのくせどうでもいい髪の長さとかがみがみ言いやがって。50を数えても奴らに対する反抗心は消えない。まあ俺、永遠の中二病患者だからな。不治の病だ。
_ 入谷へ。
鬼子母神で有名な入谷へ。お参りに行ったわけでも季節外れの朝顔を買いに行ったわけでもなく、台東区中央図書館に行って、テレ玉の「風のスケッチ」というDVDを借りに行った。以前何度か行ったのはもう2年ほど前となり、利用登録を更新したのだが、平成26年…って再来年か。その3月いっぱいで区民以外の利用ができなくなるようだ。今日借りてきたような資料は、ある意味希少価値でAMAZONでも入手は困難だ。このような規制に対して利用者の利便性が悪くなることをどのように補うのであろうか。そのうち地元横浜の図書館に問い合わせてみようかと思う。ちなみにこのDVDには川越街道の映像がいくつか収蔵されているとのことで視聴したくなったのであった。