RSSフィード:http://alpha-ralpha.com/diary/index.rdf
2012-11-01 [長年日記]
_ 限界均等化原理ということがある。経済学では何故か微分のことを「限界」と呼ぶ。原語でもmarginalなので一概に訳語が悪いというわけではない。むしろ、解析学の概念を隠して平易さを偽装しているような悪意を感じるのだが、案外この概念は微積分の発明に先立って生まれたかもしれない。ともかくこの原理は、労働による負荷の増加率がそれによる収入の増加率を上回るなら仕事を増やすのはいまよりも損になるということで、まことに当を得た原理だ。ただ、これら二つの増加率はいつでも一定ではない。それが問題だ。続く。
2012-11-02 [長年日記]
_ 限界均等化原理・続き
この原理は英語だとequimarginal principleとなる。しかし昨日書いたように、むしろequidifferencialとかequiinclinationとかequidelivertiveとかequigradientとか言った方が直接的であろう。日本語でいえば微分均等化とか増加率均等化ということになる。
さて、この原理が正しいとしても、必ずしもこの意味でリソースを配分することがいつもできるとは限らないという話である。原因は過去と未来における"情報の偏り"であり、私たちは過去に関して知っている情報に比べると未来に関するそれ(←未来のことに対して私たちは何も知りえない、とは考えていないので)をきわめてわずかしか持っていないことに起因する。だから、今生きているそのときそのときにおける、労働による"負担の増加量"も"収入の増加量"も計算することが難しいのである。そこで次は、これら負担と収入が、仕事量を増やしていくとともにどう増えていくかを考えることになる。数理的な操作を進めるためにこのようなモデリングを行なう必要が出てきたわけだが、そのことが、期せずして私たちは何のために働くのかという人生観や処世術のようなものに一致していくのを見ることになりそうである。続く。
-------------------------
[栗山千明] シシドカフカ。
本名だったらキラキラネーム(=DQNネーム)ということになるのだろうが、この人が栗山千明さんにそっくりということでネットでは話題。画像見ると、髪型同じだとちょっと見区別付きにくい。性格はだいぶ違うんだろうなー。並べてTVに出したら面白いと思う。
-------------------------
限界効用逓減の法則。
上の続き。ここで言う「効用」は、上に書いた「収入」に相当する。収入を期待して仕事を始めたとする。覚えのいい人なら初めから学習効果があらわれて、覚えたことと仕事の進み方とがうまくマッチすれば、仕事量を一つ増やすことによる成果の増え方は比例よりも大きくなるかもしれない。一を聞いて十を知る状態。しかし、それもある程度続けていくと、どこかで、成果の増え方が鈍ってくることが多い。
ちょっと違うたとえだが、暑い日に飲むビールは一杯目が一番うまいが、二杯三杯とジョッキを干すにつれおいしさを感じなくなっていく。逓減とはだんだん減るという意味である。「限界」とはこの場合「微分」と同義であることはすでに書いた。「限界効用逓減の法則」とはこのようなことを指しているわけだが、これはすでに書いた「限界均等化原理」に比べると自明なことではなく、なぜそうなるかというメカニズムが説明されるべきことである。逓減し切った状態はプラトーと呼ばれる。グラフにすると傾きがゼロに近いということなので、台地という意味のプラトーという名が付いているのである。ダイエットやトレーニングでもあらわれることである。プラトーに達すると、仕事を増やしても大していいことはなくなるから、さらに先を目指そうとする人はあらたな習熟のステージを求めることになる。ある人はセミナーに参加して考え方を変えたり、ビールから日本酒に切り替えたり、節食ダイエットからヒルズダイエットに変えたり、ダンベルの重さを重くしたりするわけである。こういうあがきが功を奏した場合には、「イノベーションが起こった」と言われたりすることになる。つづく。
----------
[特撮]総天然色ウルトラQ。
スダール化してきたことを自嘲してこの日記のタイトルをちょっと変えてみた。まあすぐ元に戻すつもりだが。ところでそういうことでウルトラQのことを調べたら、総天然色ウルトラQというのがあるんだそうだ。私は作品世界においては過激な原理主義者なのだが、これはYOUTUBEで紹介映像を見てて、すごく欲しくなってしまったのである。それは後付けの色彩という以上に、放映当時の世界をVIVIDに伝えてくるものとなるはずだからである。淳ちゃん(←万城目淳というのが主人公の名前)・一平ちゃん・由利ちゃんの青春がどんな色合いだったのかというのは、怪獣たちがどう彩色されていたか以上に重要な論点(って一体なんの論を展開しようというのだ)となることであろう。
2012-11-03 [長年日記]
_ [映画] 「続・エマニエル夫人」
1974年の前作から3年。おっと!前作の時の俺って12歳じゃないか。そうなのか。すると当時シルビア・クリステルは22歳。そしてそれから3年なのでこの続編では20代後半となってリアルでもかなり手練となっていたことと思う。ジャンの役者は前作のダニエル・サーキーからウンベルト・オルシーニという役者に変わっている。前作では夫(とのセックスシーン)はほとんど印象に残っていないが、続編では最低でも3度には及んでいる。名前から想像するにこの男はイタリア人ではないだろうか。こっちも相当な手練と見た。前作でマリオの手ほどきによって性愛の技術の手ほどきを受けたエマニエルは(そうだよ、『エマニエル夫人』と呼ぶと夫の姓がエマニエルみたいじゃないか。本作でもジャンが"Madam Jan!"と彼女のことを呼んでいる)、次なる獲物として処女・アンヌ=マリーを狙い始める。ジャンの獲物もまた処女アンヌ=マリーであるのだが、彼らの間には複雑な問題は起こらず、まるで石野真子の「春ラララ」みたいに3人仲好くセクスを実施して劇は終了する。前作で儲かったせいなのだろう、すごく映像のクォリテイが上がってる。舞台は香港からバリ。この作品を貫くのは欧州から見た異国情緒、女性側からの欲望の吐露であるが、この作を見て気付いたことは、エマニエル・アルサンの物語が最愛の夫を奮い立たせるための挑発的なそれであるという可能性だった。エマニエル・アルサンは作中のエマニエル同様に外交官夫人だったという。彼らの夜の喜びにさらなるアクセントを与えるために書かれたファンタジー。それこそが「エマニエル夫人」だったのではないか。そして本来は夜の夫婦の寝室の中だけで読まれた(もちろん作者エマニエルが自らの作を音読し、外交官殿はその文章を、誤解や偏見、浅い知識、登場する自分ではない多くの男性への嫉妬などともろともに喜びとしたのではないか?)この作品が公開されるや、世界中がそのファンタジーにハマったということなのである。
注。上記後半、特に()内は全くの妄想で書いているので、間違ってもWikipediaなどに転載してはならない。
_ 未来形。
日本語には明確に未来形と呼ぶべきものはなく、「〜だろう」とか「〜ことになる」といった表現はあるが、これらも時制の区別だけで使われるものではなく、推量とか当然の帰結をあらわしたりもするので難しい。それでWillとbe going toの区別の話。willは不確定性のある未来に対してつかわれ、後者はかなり確率の高い場合に使われるのだ、というのが今習ってるイギリス語の先生の言うところだった。我訊ねて曰く「しからば問わん。will と be going to、いずれやあまねく用いられん。willなりや」「しからず。おのおの持ちうるところ異なりてやある」そういうわけで、わたしはなんとなく両者が言い変え可能と思ってたのだがそういうことではなさそうだ。わかりやすいのはI wish I will...という決まり文句で、これをI wish I'm going to ...と言い変えたつもりになると、一体何の事だかわからないということになるらしい。言う人もいるよ。ただしジョークでね!ということなのだそうだ。無理やり意訳するなら、私は…するべき定めが我が身に起こることを望む、という感じになるのだろうか。それにつけても。間違った教育の害悪にも思いを馳せつつ、田舎の先生たちは自分でもよく知らないくせに偉そうに良くも誤りを押しつけやがったな、とつくづく思う。そのくせどうでもいい髪の長さとかがみがみ言いやがって。50を数えても奴らに対する反抗心は消えない。まあ俺、永遠の中二病患者だからな。不治の病だ。
_ 入谷へ。
鬼子母神で有名な入谷へ。お参りに行ったわけでも季節外れの朝顔を買いに行ったわけでもなく、台東区中央図書館に行って、テレ玉の「風のスケッチ」というDVDを借りに行った。以前何度か行ったのはもう2年ほど前となり、利用登録を更新したのだが、平成26年…って再来年か。その3月いっぱいで区民以外の利用ができなくなるようだ。今日借りてきたような資料は、ある意味希少価値でAMAZONでも入手は困難だ。このような規制に対して利用者の利便性が悪くなることをどのように補うのであろうか。そのうち地元横浜の図書館に問い合わせてみようかと思う。ちなみにこのDVDには川越街道の映像がいくつか収蔵されているとのことで視聴したくなったのであった。
2012-11-04 [長年日記]
_ [映画] 「さよならエマニエル夫人」
「エマニエル夫人」っていう言い方おかしいのにそろそろ気付けよ、という感じの第3段。今半分ほど見たところ。これまでの作は"自然を憎む"マリオの教義に従って生きてきたエマニエルとその夫。しかし彼らの宗教に危機が訪れる。かつて彼らのように奔放な性愛の暮らしを生きようとして破綻した若い映画監督にエマニエルは惹かれ、これまでの生き方を自省している。あれほど画期的と見えたマリオの宗教をこのように同じシリーズの作品の中でおのずから否定することになっていくとは。あまりに連載が長期にわたったせいで作品の世界観が大きくぶれつづける連載マンガを思わせるほどの方向転換と見える。三輪車の原理は古い宗教として捨てられてしまうのだろうか。ちなみに、私の購入した「続」および「さよなら」はいずれも「無修正版」ということで、ごく瞬間的ではあるがジャンの逸物がプランと揺れるのが見える。中学生が見たらキャアキャア言って喜ぶところだと思う。日本のポルノの完全解禁ももう時間の問題と思う。しかしこの作品、著作権に関する注意書きは書かれていても、年齢制限のことはパッケージにもディスク本体にも表示されていないんだが、大丈夫なのか。続く。
_ [映画] 「さよならエマニエル夫人」
今見終わった。エマニエルが去るのを阻止しようとして小細工を弄するジャン、哀れなり。そのことはエマニエルの知るところとなり、結局エマニエルはグレゴリー監督を追ってパリへ。エマニュエル・アルサンの書いた続編は途中までしか読んでないが、たぶんこんな結末ではないだろうと思う。一大センセーションを巻き起こした本作も結局のところは収まりの良さそうなところに収められてしまったということだろうか。そういうわけで反処女エマニエルという呼び方はもうふさわしくない。「あれは昔の過ち」的にかたづいてしまったのは残念でならぬ。性描写も「続」の方が濃厚である。それも残念でならぬ。個人的なシルビア・クリステル追悼企画としては良かったと思う。さよならエマニエル、さよならシルビア。お世話になった、いろんな意味で。というか特定の意味で。
_ [特撮] 特命戦隊ゴーバスターズ
今日は朝からええもん見せてもろたわ。エスケイプちゃんの黒いウェディングドレス姿。そこからゴクとマゴクをぶっ放す。ちょっとキル・ビルを思い出した。そう云えばキル・ビル2見てなかったな。ヨーコちゃんとエスケイプちゃんはどうもウマが合わないようで(それはそうか)、今日も激突していたが、競い合う中で互いを認め合う微妙な関係の萌芽も見え始めている。自らにデータをインストールして存在を不安定にするリスクを冒しつつも自己強化してメサイアを守ろうとするエスケイプに、なぜそこまでするのかと問うヨーコ。それにエスケイプは「さあ?私はイイモノと闘いたいけど、同じくらいパパ(メサイアのこと)も大事ってことよ。説明なんていらないでしょ!」と応える。今回の最後の方でヨーコはその言葉を反芻して、あろうことか己の恋の行方に思いを馳せたりなんかするのである。。。水崎綾女ちゃんはちょっとお肉を落とすと得意のアクションがもっとシャープに見えるんではないのか。でも現状の二の腕の存在感もそれはそれでせくしいじゃよ。
_ [経済学] 限界費用逓増の法則
こちらは最近ネットで見つけた言葉で、逓増という風に「逓」の字が「増」と共に用いられることもあるのを知って軽くショックを受けた。逓増とは徐々に増えるという意味になる。字面のとっつきにくさよりも中身の方は実感としてわかりやすい。生産量をどんどん拡大していくにはそのためにかける費用も増やしていかねばならないわけだが、仮に人員を増やさない場合であっても、働いている人に負荷が大きくかかりすぎるなら、今よりももっと栄養価の高い食事を摂ったり溜まったストレスを解消するためにレジャーやリラクセーションに出費がかさんだりする。あるいは人員をもっと増やしていく場合、そこで新たに雇われた人が必ずしも今の仕事に関する知識をあらかじめ持って入ってくるとは限らないから、その人が使い物になるまでには教育を授ける必要がある。これが企業になれば、50人以上いる職場には専任の衛生管理者を置かねばならなくて受験費用が必要だとか、環境に影響を与える廃棄物が増えるような仕事の場合にはそれを処理するための設備や法令順守のための費用などがさらにかかることになる。作業者の間にトラブルが生じることだってある。このようにして、生産量を一単位ふやすためにかかる費用は、生産規模が大きくなると共に増大していくことが大変多い。ひと手間増やしても昔ほど儲けが増えないのだ。先にも書いたように経済学では微係数のことを「限界」と呼ぶので、「限界費用は逓増する」、ということになる。つづく。
_ [食べ物・飲み物] 食べるしじみ。
こないだ乾物のしじみのことを書いたんだが、朝食摂りつつ袋のラベルを見ててあることに気付いた:『食べるしじみ』ってなんだよ。食べないしじみは売らないだろ。
食べられないしじみは蝶々のヤマトシジミとかだよ。しかし貝の方にもヤマトシジミという種類があったりして結構面倒くさい話題だった。
2012-11-05 南海の怒りスダール。 [長年日記]
_ ついに『南海の怒りスダール』で検索するとこのページが出てくるようになった。こうなると、元に戻したくなくなる。
_ [経済学] 限界効用逓減の法則。
仕事量を増やしていくとそれによる見返りがどのように増えていくかの話の続き。よくあるパターンは、ある程度経験を積み重ねるまではアウトプットがなかなか出てこないが、ある壁を越えると学習効果が開花して効率が上がっていく。こういうときは仕事が楽しいだろうし自分の成長というのも実感できることだろう。が、その期間が過ぎると、次第に成長が頭打ちとなっていく。そこで横軸にこれまでの経験の数を取って見返りの多さを縦軸に取るなら、いわゆるS字型というカーブがあらわれる。
ところで、このS字はその"くびれ"のところでくるりと180度回すと同じ型に重なるだろうか?限界-"なかなかなじめないが限界"とは"微分"のことだ―効用はこのくびれの周りで大きさは同じだろうか。S字曲線の傾きは変曲点の周りで符号は異なるが同じ値なのだろうか。そうなのかもしれない。だがそうだとしても、私たちは学習効果が上がっている時ほどには効果が下がっている自覚を感じられないのではないだろうか。このことは心理学や行動学、生理学の助けによって解かれなくてはならない問題だと思う。さらに、今ちょうど自分がその変曲点を越えたばかりの時に「あれ、自分の効率は下がりつつあるな」とはなかなか気づけないことだろう。むしろ、以前の調子のよい変曲点の手前の記憶がかえって災いして、まだまだ頑張れば調子が上がっていくように錯覚してしまうのではないか。なぜなら、過去の情報に比べると私たちは今、そして今より先の未来の情報を驚くほどわずかしかもっていないからである。限界均等化原理によると、そんな状況で今までと同様の労力をかけ続けても、損になっていくだけなのである。つづく。
2012-11-06 [長年日記]
_ ちょっと寝るのが遅くなりTVKの「洋楽天国」をちらっと見てたらシェネルという歌手が「あなーたーとわーたーし」とか歌ってるの見て変なの、と思った。洋楽のKPOPみたいだなと思った。この人、マレーシアの歌手。きれい。大きな栗の樹の下でが洋楽になるとは思わなかった。でもなんか面白い。でも気持ち悪い。大きな栗と、栗鼠でした♪
_ アンサイクロペディアの秀逸な記事のことをこのあいだ書いた。だが俺はそのすごさを垣間見ていたにすぎなかった。アンサイクロペディアは日本だけのものではなかった。だから「あああああ」のページに対応する各国の記事があるのである。たとえばこんなだ。何が面白いかわからないが、面白い。
2012-11-07 ゴビンダさんに無罪判決。 [長年日記]
_ 「今日私はさいしんで無罪になりました。私にとってにどめの無罪はんけつです。さいしょの無罪はんけつがただしかったことがやっとあきらかになりました。もちろんうれしいけれどくやしいきもちもあります。どうして私が15年かんもくるしまなければならなかったのか日本のけいさつけんさつさいばんしょはよくかんがえてわるいところをなおして下さい。無実のものがけいむしょにいれられるのは私でさいごにして下さい。今まで私をたすけてくださったべんごだんとしえんしゃのみなさんに心からかんしゃしています。これからもよろしくおねがいします。2012年11月7日 カトマンズにて ゴビンダ・プラサド・マイナリ。」
つい最近「東電OL殺人事件 」(佐野眞一著)を読んだばかりだった。この事件にはスキャンダラスな点が2つあり、そのうちの一つが今回の誤認逮捕であり検察側が無罪を主張するという超異例な結果となった。今一つはエリート女性社員を売春に駆り立てたものは何だったかという点で、こちらの方はなかなか論証が難しいことである。
_ 今日、定期健診だった。視聴覚検査と血液サンプリングに続いて身体測定となるのだが、昨年に比べて4キロほど逓増していた。それに見合うだけ腹囲も増えていたのだが、わりと体重計には乗るほうで、結構めまぐるしく増減を繰り返しているのであまり気にとめていなかったのだが、昨年の数値との差をむしろ検診のスタッフさんの方が気にとめて、わざわざ「よろしいでしょうか?」とこちらに確認を求めてくるのである。それがおかしくて、思わず「いや、しょうがないじゃないですか」と返答してしまう私。「不満だとでも言えば…?」不満だとでも言えば少し数字をいじってくれるというのだろうか。「一応確認させていただきました」と少々困惑された。真面目な女性をいじるのもそろそろやめといた方がいいかもしれない。なんかもう一つ面白いことがあったような気がしたが忘れた。
_ [漫画] 「どろん」弓月光
1972年に単行本の初版が出ている。近所の女の子かもしかするといとこの女の子に当時見せてもらったんだと思うのだが、なぜこれを読み返したくなったかというと、最近新堂エルの「TSF物語」というのを読んで(←さらっと書いてるがさらっと書くようなことじゃないんだよね、本来は)、男女の性が逆転する物語のことが大変気になっているんである。最近は「女体化」などといって同人誌を中心とする作品群の中で一つのジャンルを確立しているのでそろそろこのジャンルには統一的な呼び名が必要と思っている。思うのは勝手だからな。思えばわが国には平安のころに成立した「とりかえばや物語」という古典があるわけだし、能だって狂言だって女性役は男性がやる(もっとも狂言の場合は頭に白い細長の布ーこれはビナン蔓と呼ぶんだそうだーをまいただけで化粧も何もしないで女の着物を身につけて女性を象徴的にあらわすのだが…)のだし、手塚治虫先生だって宝塚歌劇にほれ込んで「リボンの騎士」のようなTSFモノを描いたのだ。日本は昔から腐女子や腐兄の世界にいたのである。弓月先生の「どろん」はさらにそのセクシュアルな面を強調した作品で、男性の女性化が中途半端になって性器だけ男性のまま、という記述がある。「男の娘」の先取りじゃないか!ぶったまげた。私はこれを読んだ頃は10代初めの方だと思う。主人公大助が自分の胸を触ってるコマに違和感のある写植の「ホンワカホンワカ」というオノマトペはすっかり頭に焼きついていた。だが、初めて読んだときはあんなにときめいたというのに、今はもうその部分に関する刺激としては物足りないものと言わざるを得ない。子供って感じやすいんだなあとつくづく思った。胸のふくらみがなんとなくエッチなことに属するものだとは気付いていたが、それが自分のものになってしまうことを想像すると奇妙な興奮を覚えてしまう。それは変態の萌芽である。わたしにはもう一つ変態の萌芽のきっかけとなる作品がある。それはあろうことかまたしても手塚先生の作品で、旧タイトルを「バカちょん」、現在は「バカ一」という作品である。何をやっても駄目な主人公が、ある日催眠術を習得してきれいな女の子を思いのままに操って服を脱がせかけるというシチュエーションにものすごく興奮した。これらのシチュエーションの興奮は幼い自分をして何度となく妄想を誘起せしめたのだが、精通以前だったため当時の生活には特に支障を与えることもなかった、まあ罪のないエロスの部類といえるんではないかと思う。
なんかこんなことばかり書いてるとまるで自分はエッチなことが仕事の人みたいに見えるから困る。困るなら書かなければいいんだ。
2012-11-09 [長年日記]
_ [食べ物・飲み物] 馬車道・KING KANDY
スリランカカレーの店、ということで行ってきた。うまいものを食べてるとやな奴のこととか忘れさせてくれるので良いな。嫌な奴のことっていつのまにかずっと考えてたりするからホントやだよ。
_ [テレビ][下田街道] 新日本風土記・天城越え
新日本風土記もずっと録画を続けている番組だが、まともに見たことがあまりない。今日は早く帰ってきて、かつ内容が天城越えということなのでちょうど今見てるところ。天城隧道脇から稜線歩道を東に向かうと、八丁池に行く途中で奇妙に曲がったブナの木が生えている平なところがある。そこが今TVに映っている。天城峠付近はずいぶん遊んだが、まだ見ていないところもあるのでまた行きたいと思う。天城は雨木ということだ。今、猿田淵が映ってる。そして浄蓮の滝、流刑の地、サイの神…。自然と民俗とそして古い道…また天城に行きたい。
_ タイトル元に戻した。実は使ってた画像、許可なく使ってたんだよなー。
_ うにゃ [確かに美味しいもの食べてるときは、幸せだ〜^^]
2012-11-10 [長年日記]
_ [川越街道] 川越街道展(1992)
先日台東区中央図書館に行ってきたときに、郷土資料の部屋で、92年に板橋区立郷土資料館の開館20周年特別展の資料があるのを見かけて、ネットで「日本の古本屋」経由で購入。久留米市の古本屋さんから3日くらいかけて届いた。なぜ久留米に、というのもちょっとした物語性をはらんではいるのだが、まあ考えてみたところでわからない。私のクオリアとあなたのクオリアが同じか違うかが分からないのと同じように、世の中にはいくら考えたところでわからないことはある。川越、いつ行けるのだろう。
_ 今日は英会話に2分ほど遅刻してしまう。作文の宿題をやったあと少しシャワー浴びてくつろいでしまったあげく自転車(で出かけたのだが)のタイヤの空気が気になって補充したりして遅れた。クリスマス商戦は英語で何と言えば良かったのだろうか。エキサイト翻訳によると"Christmas shopping season"ということだった。今日のレスンも未来形について。進行形をContinuousと呼ぶのが思い出せなかった。
2012-11-11 [長年日記]
_ 視線が思考の仕方に影響することは以前から知っていたような気がする。上目遣いの時には記憶力が刺激される。利き手や"利き脳"(?)にも関係するのだろうが、これを左上目遣いにすると、とらわれ思考から解放されるということがどこかのHPに書かれていた。やってみるとそんな気もする。ヨガをやっていると体の非対称性に気づいて驚かされることがある。私は右側にねじるより左側にねじるほうが苦手なようだ。三角体側伸ばしで右に挙げた手を左目で見るのはたやすいが、逆は苦手だ。そのことと関係があるような気がする。もしかすると、ねじれのポーズはとらわれ思考を解消することに効果があるかもしれない。このような修練は、高度な脳機能を獲得した故に起こる弊害である。これ一つとってみても、ヒトが楽園から追放された存在であるということは確かなようだ。
_ [怒りの日記] 久しぶりに怒りの日記を書いた。
とてもネットには書けないことなのでツバメノート縦書きに書いた。毎日ではないが、このノートには泥酔状態のたわごとや夢でみた物語その他、あらゆる心的経験が書かれている。そんなものでも死後誰かの目に留まることを意識して書いていることがある。愚痴をこぼすのは正しいことではないという教育を受けてきたように思っている。だが、愚痴に現れるものごとはすべて心的事実の反映だと考えると、それにとらわれないための仕組みは必要だ。それが井戸端会議であったり、ピロートークだったり、他者に対する攻撃的な批判の言葉であったり、デスノート的な日記であったり、メンタルクリニックの面談であったりするのだ。私は心の中の醜いものをさらけ出すとみじめになってしまうし、自分が完全でないとわかっていながら声高に自分の正当性を主張することもできないから、それ以外の方法に依ることが重要となっている。そんな風なことをしているうちに、心に巣くってしまった存在は、否応なしに自分にとっての「重要な他者」であることを認めなくてはならない、ということに気がついた。今日のところはこれで良しとしよう。50年間屈折しつづけてきた心がそう簡単に清く明くなるはずもない。それに比べると体の細胞は一年かければほぼすべてが更新される。1年間良い習慣を続ければそれなりの効果が出ることは心の行く末を予想するよりは自明と思われる。だからヤケを起こして悪い習慣にのめりこむことだけは避けなくてはいけない。
_ [漫画] 「ボクの初体験」弓月光
読み終えた。やはり以前読んだことはあった。70年代半ばに、早くも現在のTrans Sexual Fantasyを予感させる先進的な作品と位置付けられるものだと思う。思春期に差し掛かったころの女性を対象に描かれているということになるのだろう、それゆえの配慮が見られて、編集側との調整もかなりあったことが思われる。主人公・英太郎は、同級生である若き人妻(TS的要素を抜きにしてもこれだけで十分先鋭的だが、その手のことを扱ったものは『おさな妻』とか『奥様は18歳』とかいろいろあって筆者の範疇を越える…範疇ってどこまでなんだ)・春奈の体に脳を移植されるのだが、あまりに純情なために自分・春奈の裸体を見ようとすると失神してしまう。そのことが、作者が男性であるにもかかわらず、男性視線のギラギラしたいやらしさをうまくかわしているし、それ以上描かなくても済むように、という安全装置になっている。あろうことかそんな状況で脳移植前に身ごもっていた春奈の赤ちゃんを出産するという、普通男性には体験できそうもない体験をしてしまう。なにからなにまでがボクの初体験、なわけで、後年舞台を青年誌に移した時にこの抑制された表現はどのくらいあからさまになったのか、ということは今後検証されるべきことと思う。やはり男性の永遠の憧れであるはずの女体を持っているという感覚の"驚き"は、ヤマもオチもイミもない作品であってもその要素だけで十分鑑賞に耐えうる物語を作るものとなるはずであり、すべてのTS作品はそこが書きたいためだけに作られるといっても過言ではないだろう。そこが少年少女向けという制約を逃れた場合、商業誌ではどのように扱われたか、また商業ベースに載る以前の同人活動はどのようにそこを目指したか、そのような現象の歴史を検証していくべきなのである。「べき」とか言ってるが誰が義務付けているというのだ。それにしてもつくづくと思うが、発表された当時俺は中学校入りたてくらいだ。学生服に着られている風情がぬぐえない頃でもうそろそろ陰毛の芽生えが話題になりさらには初めての精通なども…というくらいの、久住昌之曰く「人生で一番ダサい季節」真っただ中だ。なのに、こんな先鋭的な作品が週刊マーガレットという同世代の女子が良く読むような雑誌に載っているのである。当時の反響はどうだったのか。少なくとも、「ハレンチ学園」が社会問題となったようにはセンセーショナルな話題とはなっていないと覚えている。あの頃好きだったあの子もこんなの読んでたんだ。そう思うと、思春期のうずうずした感じを思い出すとともに、女の子たちの妙に大人びた風情に膝を打つ思いもある。お前ら、男子の前では隠してたみたいだけどかなりエッチだったんだな!まあそうじゃないかという気もしてたよ。秘すれば花ということもあるし、そうでなくては興も覚めるというもんだ。
この作品のヒントになっているのはロバート・A・ハインラインという高名なSF作家の「悪徳なんかこわくない」なのだそうだ。そういえば早川文庫のあの本のカバーのイラストはエッチな絵だったような気がする。そうか。SFならしかたない。読もう。
そうだ、このギャグ書いとこうと思ってたんだ。これ何て読む?↓
Full I care, cowards to become misnote.
答え特に書かない。エキサイト翻訳で翻訳すると、「十分、私は注意します、誤ノートになる臆病者」。かなり有名な日本の文が元になってます。空耳で聞け!今度機会があったら英会話の先生に教えてやろ。
_ [放送大学] 履修忘れた!
この土日は面接授業だったのだった。気付いたらもう今日だ。授業料無駄にしてしまった。実は一度ならずこういうことがある。学生の本分をすっかり忘れている。授業決まった時点でOUTLOOKとかに書いておけばよかったのに、どこにも書いてない。。。ショックでかの輔だ。今回の授業は長唄の世界への入り口になる予定だったのだが、縁が無かったということで。。。参った。
_ 絶対的に情報の偏りがあってこちらは不利。この先もそれが埋まる可能性が限りなく小さいとしたならば、戦うべきではない。だが、それからどうするか。ゲームの理論は弱者が逆転するシナリオを支持してくれるのか?教えて、孫子な人。
_ 夜へ急ぐというよりは夜になるので急いだという感じだったが、先週借りてきたDVDを返しに台東区中央図書館に行った。ついでにそこから言問通りをずっと歩いて隅田公園に向かい、スカイツリーを撮影。こいつのおかげで横浜の我が家でもタイガーマスクが見れるのだなーと思う。トップページの絵を入れ替えた。他に二つ候補にしたのをここに載せとく。雨。レンズフードが家のどこかにあるはずなのだが見つからずつけずに取ったらやはり結構雨粒が映りこむことに。
_ うにゃ [スカイツリーのライトアップ初めて見ました! でかいよね〜やっぱり。 東京タワーが恋しくなっちゃった]
2012-11-13 [長年日記]
_ [漫画] 「鉄の旋律」「メタモルフォーゼ」「ボンバ!」手塚治虫
手塚全集しばらく読んでなかった。手元にある奴三冊読んでみたが、どれも虫プロの調子が悪かったりいろいろして先生も非常にストレスを溜めながら書いてたものが多かったようだ。鉄の旋律は劇画超で、高校の時にこの作品と「ペーター・キュルテンの記録」など読んでこの先生は恐ろしいことを考える人だったんだなあと正に戦慄したもんだった。ボンバには妄想の馬があらわれて世界を、そして妄想の主たる主人公をも滅ぼそうとする。激しいリビドーの表現には馬がふさわしいと全く思った。以前不調から回復しかけていたときに、牧場から逃げ出そうとする太った馬と共にどこからか逃げ出そうとする夢を見たことを思い出す。そういう激しさに身を任せるのは今ではない。今は違う問題にあたらなくてはならない。
2012-11-17 [長年日記]
_ アイルランドでパブに行けば勝手に音楽が始まってみんなレベル高いんだと。素面でついていけるのだろうか、でも一度行きたい。そんな会話を今日の英会話ではしていた。下期の授業が始まる。もうちょっとビジネス英会話よりのコースとかTOEIC目指すコースにしましょうかというスタッフさんに対して、「いいえ、今のコースで流暢に与太話ができることを目指します」と伝えといた。幸い英国の文化や音楽には興味があるわけで。でも来週の三連休の授業はずらしてもらった。おっと、忘れないうちにOutlookに入れとかないと、こないだの放送大学みたいになってしまう。
キェェェェェ
まあどうせ近所の野良猫の画像くらいだろうと思うが、これとシェルスクリプトを利用すると、たぶんキャプチャーしたら携帯にメールを送ることができるようになると思われる。しまった、そんなお遊びするつもりじゃなかったんだけどなあ今週は。まあ便利だから遊んでみよう。少し何かがはかどるかもしれないし。
_ できるできないの世界にも、技術的にはできるけどお金が無いとか献体がいないとかいろいろあってできないということもある。技術的にはできる、と言ったとて、それを実現するために必要なことが分かっていないならその知識は迷信と変わらない。夢は実現するといったところでファンタジーだ。と、自分を問い詰めてみる。
_ 韓信の股くぐりという言葉は、韓信がだいぶ出世してからのことだと思ってたら子供時代のことだったようだ。それはともかく、自分が自分であることを捨てないためにならばあいつの臭い股座くらい鼻を括って何度でもくぐりぬけてやる。そればかりか隙を見て足元をすくってやったっていい。下からの視線にもそういうところはある。この文章ちょっと寺田先生の「柿の種」に出てきそうな文章だな。そんなことないか。
_ 神奈川県立図書館は桜木町駅から紅葉坂を上ったところに本館、川崎の駅から15分ばかり歩いたところに分館があって、いずれも少々アクセスが悪い。これを、横浜駅そばの生涯学習情報センターで受け取ったり返したりできることが近頃わかった。こういうことがわかるにつけ、都会で情報を集めることの利便性を感じずにはいられない。まあ所詮は与太話を彩る程度の情報にすぎないが、そういう楽しみにだって情報の偏りが行動を左右するということはあるのだし。それが私がこの地を離れることには吝かである理由なのでもある。
_ なんとなくSMAPのダイナマイト歌ってみてるんだが、間奏のとこの"dynamite honey danger in the night "というおやじギャグの次に何てスキャットしてるか分からない。2001年の歌らしいのでもう11年間わからずにいる。あれからネットも相当普及したというのに調べても「歌詞は公表していないようです」とかハテボに書いてある程度という体たらくである。これではアドリブに弱い中高年には辛いと思うので、ここは一つ私が空耳でカタカナで書いておこう!
dynamite honey danger in the night danger in the night バッバーバ ラベッベ レベラ
たぶん音便によってバがパになったりベがペになったりレがベになったりするのは酔った勢いで歌ってる限りは許されることと思うぞよ。それよりももっと問題なのはeufoniusのriya語なんだが。"Idea"の1:24あたりなんてニコニコの人たちには「ペドフィリアー ミートゥ」なんて読まれてるんだぞ。
_ LiveCapture2
CRON設定するまでもなく、このソフトの設定で問題なかった。ただ、こういうのを良く知らずにセキュリティホールになる可能性は無きにしも非ずとは思う。とりあえず何千枚とたまってたftpフォルダの画像はしこしこダウンロード中。これで、日中PCを動かしておけばだが、留守中に宅配のお兄さんがやってきたときとかに画像がメールで飛んでくることになるのだが、こういうのは監視中とか表示しておくべきなんだろうか?センサーライトもついてるわけだしそうしといたほうが問題が少ないんだろうな。
_ 来年の年賀状も自筆で行こうと思ってはいるんだがたしか蛇年だよな。ちょっと変わったのと思ってアルルカンを調べてヒットしない。ちげえよ。ククルカンだよ。だれがれざあ・ましおうだよ。
そういうわけでククルカンもしくはケツァルコアトルを調べてみたけど、この世界は良く分からない。FFの召喚獣ってわかりやすく描かれてるんだなあと改めて思うよ。どうすっかな。去年描いた"お竜さん"も今一つ分かりにくかったのだし。そう思ってたら、モチーフ的にはとても良いものを見つけた。俺のライフワークにもちょっと関係してるし、もうこれしかない。しかしこの件に関しては造形が多様すぎやしないだろうか。まあもう少し考え絞ろう。ホントに描くかどうかも含めて…
2012-11-18 ビデオカメラに何が写ったか? [長年日記]
…スダレ。
そう、あの南海の怒り・スダールの猛勇たる異形であった。そうかー、この角度ならしっかり映るよなー。しかもどうやら自覚し始めたころよりも半年くらい前からもうだいぶ申し開きが利かない様子を呈しているように見える。そうかー。独りよがりだったのかー。あの頃ちょうどローズマリーとアロエと昆布のリンスを自作し始めたんだが、悲しき独り相撲だったのだ。それももう髷が結えなくなって土俵を下りざるを得ないところまできてしまったというのか。。。なんかもうさすがにあきらめざるを得ないという感じ。だが、実はまだあきらめが悪いんである。光の加減がどうしたとか、こんなにど真ん中がかわらけ状なのは俺のスダレじゃあないとか、これは薄手の帽子をかぶってた時のかぶり方が悪くて変な映り方をしてるせいだとか…ええい見苦しい!今後はカメラに向かって我が南海の怒りの聖痕をしっかりとアップで映してくれるわ!
それにつけても、これからハゲには辛い冬です。ときおり手紙を書きます。涙で文字がにじんでいたならわかってください。ハゲが進んだのだと…笑え、笑えよ…フハハ。
_ まあハゲをネタにするのも大概にしないとスベるから
(↑ほらまた使ってる)、この日記にちょっと細工を入れた。書きこんだ日時が表示されるようになるはずなのだが。。。どうやらpostedat.rbは当日初めての時刻だけ表示するという仕様のようですな。ううむ。
_ [特撮] 仮面ライダーウィザード
やはりどうも解せん。ヒトの記憶を守るライダーというのは電王に通じる闘いなのだが、それって正直なところ電王の売りだったわけではなかったよな。良い話はヒーロードラマの中では名目上は主たるものであったとしても、それは娯楽作品としての主たる部分ということではないのだよな。先日ドラゴンが出たことで不思議な安心感を持ったのは、ピカレスクな面の見えなかったヒーローに物足りなさを感じていたということだったのかもしれない。そういうわけで今後のドラゴンの暴走に期待したいと思う。あとはもっとエッチな女性キャラがいれば…あ、いえ、いなくていいです。
_ [食べ物・飲み物] 中華でいっぱい。
↑「ちゅうかなぱいぱい」をオマージュしつつ。ちょこっと家の中の整理をしただけでえらく疲れてしまい、外食にした。今日はスタミナみなぎる食事をしたいものと思ったが思いつくものがラーメンとギョーザとチャーハンという貧困な発想なのだが、一度それと決めたらそれに決めるんだと良く行く中華料理屋に寄るもいずこも終業。唯一あいていたのは中国の人のやってる中華料理屋なので正に中華思想に満ち溢れた中華料理屋なのである。どういうことかというと、ラーメンにギョーザ3個半チャーハンなどというエセ中華など大人(たいじん)の食すものではないということで、3種食べたければそれぞれ1人前ずつ宜しく頼むべし、ということなのである。さすがに耳したがう年を経て(50歳ってそうじゃなかったっけ?あ、いけね、それは60歳だ。50は天命を知るだってさ。俺の天命なんて一体どっちだ)もとい天命を知るような年となって3種目制覇耐久夕飯なんて無理だ。いざとなれば残りを折りにして持って帰る覚悟で(それも駄目と言われたら弥次喜多みたいにふんどしに包んで持ち帰る…しまった、今日は意味もなくきわどいビキニだ、ええい話が進まぬ)とりそばとギョウザと五目チャーハンを頼んだ。量はともかく絶対に3種類食べたかったんだよ。しかも喉乾いてたのでキリンフリーも一本。あまり腹を膨らませないようにちびちび飲んでいると最初にやってきたのはチャーハン。うーむ。。。これはラーメンどんぶりにすり切り一杯くらいの量があるぞ。だが俺も昔は欠食学童として名を馳せた男だ、負けられん。そういえば学生街にはやたらと大盛りを名物にする店があって、通称「チャン大」と言って通常の5倍はあろうかという山盛りチャーハンを出す店なんかがあったのを思い出した。だんだん食べられなくなってきてしまいにはスプーンで端っこの方をちょいちょいいじってるだけで時間が過ぎていくというあの忌まわしい記憶。完食した覚えが無い。それに比べれば、こちらを完食するのは掌にふぐりの中身を転がすよりたやすいことだ。なんかいろんな言い回しがごっちゃになって最後にはエロくなってしまった。「掌上に運(め)ぐらす」と「嚢中の物を探るがごとし」が一緒になった。ふぐりは関係ない。そういうわけでフハハうめえうめえと食しているととりそば登場。薄味のスープが食欲をさらに増進するぜ!そしてギョウザ6個。ここでちょっとげそっとしたが一個食べてみたらうまかったのでこれを残すわけにはいかないと思った。とりそばぎょうざとりそばぎょうざちゃーはんちゃーはんちゃーはんという感じで次第に追い詰められていく俺を悲壮感が取り巻き始める。ここは鴻門の会か。俺は樊噲か。そしてとうとうすべてをたいらげたとき、店のお姉さんが言った。「壮士なり」いわねーよ。戻さないようにゆっくり立ち上がってお勘定したのだがこの時出した500円玉がまた緑青がこびりついていたりしてなんか壮士というよりは愴士という感じだった。外に出ると木枯らしが吹いていた。思わず吟じてしまう;
風は瀟瀟として鶴水*寒し 愴士一度去って復還らず…
*注:近くを鶴見川が流れているので鶴水とした
アイスは別腹だよん。
_ この土地にもずいぶん長く住んでる。
数えれば、昔会社の寮のあったころからもう22年たつ。先ほどの鴻門の会からの帰り道腹ごなしに遠回りして帰ろうとしたら、かつては地元の名物であったはずの不動の滝が見当たらない。10年くらい前にお堂が無くなって、今や滝そのものも(まあもともと湧き水の様なものだったがはるか昔はもしかしたら修験道の聖地だったかもしれない訳だし)消えんとしているようだった。こんど明るい時に見に行こうと思う。他にも坂の上に確かあったはずの稲荷社が見当たらなかったりする。地名の由来となっている寺の裏手には明治のころまで池があり、寒かった当時の冬はそこの氷を切り出して近い遊郭の綱島に仕出ししていたのだというが、ここがそうだろうかという地形くらいがよすがと思われる。富士山の良く見えた川崎坂からの眺めは新横浜の駅ビルに遮られ、途中の駐車場で今頃は目を和ませていたカラスウリなども全く見えない。道に大きく張り出していたウコンザクラが切られたのも10年以上前のことだ。今日は自分が確かに年を取っているということを痛く知らされたことだった。自分のハゲを話の種にして喜んでるようじゃもう終いだ。なのに大人毛のない俺。大人毛なんていらない。多くは言わない。
2012-11-19 [長年日記]
_ 羽の折れた扇風機とさすがにガタの来たガスファンヒーター22年ものを粗大ごみに出すことにした。なんか普通の日記になってるな。別に良いじゃん。そう毎日ハゲやエロのことばかり書いてるわけにもいかない。ちなみに↓に投稿日時が書かれてると思うが、これは昨日試し書きした時の名残で、これを更新するすべが今一つ分からない。
さすがに寒さが増してきたのでどてらを着て電気膝かけを使ってる。別に膝かけが電気仕掛けで動くようになっているとかそういう大人のおもちゃ的なものではないです。あったかいだけ。あ、それはそれでエッチな使い道が…やめろ生々しすぎる。
_ ちょっとスタイルいじったら戻せなくなっちった。しばらくこれでいくか。。。とほほほっ
2012-11-20 [長年日記]
2012-11-21 [長年日記]
_ 昨日のことになってしまうが、サブリナパンツをはいてる女性を見て心持ち欲情気味だったのである。なぜだ?全くわからない。「チラリズム」という言い古された言葉があるが、この言葉の意味する深層の部分は熟考に値する。そう、たとえば認知心理学的な手法を用いるとほんのわずかだけふくらはぎが見えているというその現実を私はどう認知しているのか。露出部分の面積に欲情の不感帯はあるのか。あるいはわずかに見えるふくらはぎは神話的・象徴的にどのような意味を持つのか。人類史的な観点からはヘップバーン以前の資料も探さなくてはならない。放送大学の卒論のテーマとするにふさわしいのではないかと思う。
_ カラスウリの害虫、ウリキンウワバのようだ。
_ 以前の身延道行脚の時に泊まった富士宮のシャッター絵。もちろんコノハナサクヤヒメであろう。ちなみにこのページの写真にあるうちのソマリ猫の名前も「このは」と言い、コノハナサクヤヒメにちなんでつけた。って、posttdiary.rbのテストしただけなんですけどね。これでまたメールから画像うpできるようになった。
2012-11-22 [長年日記]
_ 反ちらリズム。
ちらリズム続き。
昨日、この問題に対する良い参考例を目撃した。何かと言うと、それはカーゴパンツを履いてスネを剥き出しにした男のふくらはぎだ。断言するが、俺は男の足は嫌いだ。漫画アクションにルパン三世が連載中だった頃からずっとそうだ。だが昨日目撃したそれは、それにとどまらず、片足だけ特に剥き出して、対称性という観点においても憎むべきふくらはぎだったのである。果たして、美のイデアを持つものにおいてはちらリズムはそのイデアをさらに強く想起させ、醜のイデアを持つものにおいてもまたしかりということなのか。ここに一つのヒントとなる言葉は「秘すれば花」であるだろうか。議論はまだ開かれている。
失敗した。アンチラリズムとよぶべきだった。
2012-11-23 [長年日記]
_ 記憶と想起。
或る男の試算ではヒトの脳の記憶容量はたかだか15Gバイトだかビットだか、ということだ。この男はどちらかというと独善的で我褒めの悪癖があり、それゆえ意に沿わない人の意見を容れることがない。ゆえに吟味の要もないかもしれないのだが、ところで私の持つiPod nanoの容量は16Gバイトだ。これにほぼいっぱいの曲が入っていて、それでなお足りないと思っている。仮に前記に信用がおけるなら、これらの楽曲はもっと情報が縮約された形で保存されたっていい、ということになる。しかし一方では細やかなノイズの位置や、歌詞と音色の調和、果ては意図的な空耳(より正確には聞きなし)といった同一のコンテキストに複数の意味が付与されている場合さえある。これらの現象から、古代ギリシャの哲人ならばどのような脳の記憶に関わる活動モデルを立てるだろうか。そういうスチームパンクも良いかもしれない。
そういう訳で紀伊半島南端を目指してるとこ。指写った。
宿は、イルカが呼び物である。が、時間が合わず出会えなかった。代わりと言っては何だが、ウミガメがいて、水槽に近づくとこちらを向くんである。
辺りを散歩したが暗くて要領を得ない。ただ、里山のふもとで尻の白い四つ足獣が五頭ほどいるのを目撃した。鹿だと思う。明日の朝また散歩するかな。その後電車で江住へ行き、熊野街道・大辺路の続き。
2012-11-24 [長年日記]
_ 串本に入った。
10:44。オシャレなエッチ用のホテル前で休憩中。どんだけ海が綺麗と言っても、海の画像ばかりではつまらないな。でも海。
_ ウォーキングの後は焼肉。
串本に着いたら18:00過ぎて真っ暗。冬の旅のやなところは、日が短いこと。明日は列車が混むので、もう串本観光もなにもせずに、今夜の宿をとった新宮から帰ってしまう。
どうしても焼肉が食べたくて串本みさきやで食べた。肉とノンアルコールビールだけで満腹食べて4500円は良い。味も。この後電車で新宮へ行くと言ったら、遅れないようにとあわてて用意してくれて、わざわざ来てくれてと感謝されてかえって恐縮した。
_ ところで、横浜なんかからポッと来て、楽しく古道行脚ができるためには、事前の調査や体力作りなんかよりもずっと大事なことがある。それは地元の有志の方々のたゆまざる活動なんである。対象が次第にマイナーな古道だったり険しい路になってくるとともに、そのことを痛感せずにはおられず、「どなたか存じ上げませんが、道普請をしていただいてありがとうございます」なんて時につぶやきながらこちらは単に楽しんでいるだけどころか、倒木や不法投棄なんか見つけて「ケアが甘いな」なんて道のソムリエにでもなったつもりでいたりもしばしば。だが、今日は、まさにそんな地元の有志氏に偶然会うことができたのだった。ああ、やはり地元の有志は実在するんだ、と思った。そういう人の顔が歩く人一人ひとりの脳裏に具体的に浮かぶようになれば、古道の未来はもっと明るくなる。私もまた、数々の恩恵受けた「ミチ」に、なんらかの恩返しがいつかはしたい。が、当面はただただ歩くことを続けたいと思う。人が歩かなくなることこそが、ミチの寿命をもっとも縮めることに他ならないからだ。
2012-11-25 [長年日記]
今朝の飯。車内販売は無く、新宮駅近傍にはコンビニも見当たらず。なので、ラション(行動食)の残り。近頃のコンビーフは缶では無くなって食べにくくなったが、空腹時の頼れる一品。
_ [テレビ・ラジオ] カルチャーラジオで。
「カルチャーラジオ」はNHKラジオ第2の番組で、今夜は立教大の上田恵介先生のカッコウ類の托卵をめぐる話題だった。カッコウはウグイスの巣に卵を産む。カッコウのヒナは背中にくぼみを持っていて、そこに他のウグイスの卵を載せて巣の外に落としてしまう。親ウグイスはカッコウのヒナにせっせと餌を与えて育てる。ここまでは良く知られたことと思うが、ウグイスもいつまでもやられっぱなしということではなくて、鳴き声の違いその他の差異を見つけてカッコウを排除するような行動を起こす。ウグイスの卵は4つと決まっているそうで、これらを押しのけても自分が一羽でないように見せかけるために、ウグイスのヒナ4羽分の餌乞いのさえずりを1羽でするんだそうだ。まるで、友達がいなくて選曲もマニアックすぎるせいで一緒に歌ってくれる人がいなくて、ツインボーカルとコーラスを全部自分ひとりで歌う俺のカラオケみたいだ。ジュウイチというカッコウの仲間はジュウイチと鳴くからジュウイチなんだそうだが、これは卵を託すルリ(ちなみにルリという名前は女の子につけるけど、瑠璃色してるのはオスだけらしい)が地上に近いところに巣を作るため、ヒナは鳴き声を出さないらしい。そんな場合にジュウイチのヒナは、やはり自分独りではないように見せかけるために、両肩のところだけ黄色い皮膚が露出しているのだという。この黄色がヒナの頭であるかのように振舞うのだそうだ。托卵する鳥はフリーライダーに比することができると思っていたのだが、ここまで健気な戦略を実施していることが分かると、それも生き方だと少し見なおした。ク・リトル・リトル神話の物語の中に、人間に擬態するとても人間とは似ても似つかない生物が出て来ると思う(実はラブクラフト関係はほとんど読んでない。映画『ネクロノミコン』見てそう思ってるだけ)。なんかチョウチンアンコウみたいに、触手の先に人間のギミックをつけてるような奴。そういうのを思い出して気味が悪くなった。人間社会にも、そういう気味の悪い戦略で生きてる奴はいるんだと思う。
結局、進化と言っても個体が進化するということはなく、排除されずにすんだ形態や行動様式が生き残ったということだ。「進化せよ」なんて組織の上層部から良くそんな言葉が出てくるが、個人ができることは進化ではなく適応だけなのだ、と気付いた。進化の方向が分かっているのならば、その方向を目指そうとする個人の挙動が、適応的であるものと見なして適切に評価すべきなのである。まあ俺にとっては、彼氏がよそ見してる間に瞬間的に彼女とまぐわってさっさとすまして知らん顔してる『スニーカーオス』戦略くらいが好ましく思われる。
2012-11-26 [長年日記]
_ いま唐突に思い出して後悔してることがある。高校時代のとある部活で、とある映像作品を作り、アフレコしてたとき、単に「行く」とだけいえば良いセリフを、「いんぐいんぐ」と言うセリフに「演出」して同級生の女の子に言わせたこと。すまない、当時女の子。あなたはその「演出」に隠された意図をきっと知らずに一生懸命声の演技をしたのでしょう。そして、ばかか、当時の俺。しかし其の後、AVという映像作品の一大ジャンルが誕生して、豊丸と言う天才女優が現われて、かのセリフに堂々たる市民ケーン違った市民権を与えしむることになるとは、事実はアマチュア作品より奇なのである。
ところでかの映像作品は、卒業後二十年くらいたって、ある女性によって八ミリフィルムからビデオに保存され、今俺はそれをDVDに焼いたものをもっている。作成当時の演出意図には反して、かつて一度も副食として活用したことがない。そういう意味でも、重ね重ねすまない、当時女の子。
2012-11-27 [長年日記]
_ 不本意ながら昨日の続き。「イングイング」というと今や豊丸のよがり声というよりもINGNIなるブランド名を想起するおじょうさんの方が圧倒的なようだ(けいりう堂調べ)。これが時代とズレた、ということなのか。しんしんとさむしくなりました…
_ 実家のある北海道は今天気が荒れまくってる。停電してる地方もあるらしく、恐る恐る実家に連絡入れたら実家のある地帯は被害にあってないらしくまあ安心した。それどころか先日震度4位の地震がここ横浜であったけど大丈夫かと逆に心配された。俺はそのとき和歌山にいて難を逃れたんだが、通常は震度4くらいだと家のDVDの山が崩れるのだが、それも大丈夫だったのだ。近頃余震もだいぶ無いので危機感が薄れてきてるかもしれない。
_ [テレビ・ラジオ] 「ロケみつ」
早紀ちゃんは今スイスでマッターホルンのあるツェルマットにいるところが放映されている。なんか、マッターホルンの上の方からパラグライダーが楽しめるらしいよ。すげえな。やってみたい。富士山より高いんだぜ。でもその前に、実家の近くでセスナに乗れるので一度体験したいと思う。正月は無理と思うけどね。それにしてもラクレットがうまそうだ。番組の合間に英会話の勉強してるみたいで、回を追うごとに確実に上達してる。宿に泊まる時もはじめのころは"One people, please"と言ってたのを今は"One person"と言ってるし、単語の羅列だったのもちゃんと文章になってるし。(one peopleと言うと、"われら皆一つの人類"的な意味になってると思う。)
2012-11-28 [長年日記]
_ [読書] 「鶴見の坂道」横浜市鶴見図書館、1991年
さすがに「日本の古本屋」でも見つからない。この位の年には川崎でも横浜でも図書館が独自の書籍を出版していたようだ。川崎市高津区図書館なんかは矢倉沢往還(大山街道)関連の資料がいくつかあった。
横浜に初めて来たとき、なんて坂の多い町なんだと思った。港町は坂の町だな、小樽もそうだ、なんて思ったものだった。現在私の住んでるところは縄文のころ貝塚があったところだけあって坂道を登ったほぼ頂上にある。「鶴見の坂道」にもその坂道の一つが載っている。もうひとつ菊名駅方面から登ってくるのは「川崎坂」と名が付いているが、これは港北区なので「鶴見の坂道」には載っていない。
_ 帰宅途中の電車で子供がしりとりしてた。言うに事欠いて「キンタマ」とか言い出したクソガキ!そういうこと言ってるとクマのぬいぐるみに姿を変えられちゃうぞ。
_ ↑上のリンクを探すためにアンサイクロペディアにアクセスしたら、いつの間にか巨額の寄付を醵金する羽目になってしまった。これでは大晦日に餅も買えないではないか。許すまじ、オスカー・ワイルド!
2012-11-29 [長年日記]
_ [コンピュータ] namazu窓設置。
以前スタイルが崩れたときに外してしまった全文検索namazu。確か日記のどこかにブラウンラチェットのことを書いたと思ったがシラミつぶしができないので再設置。
_ 設定の仕方
まずプラグインsearch_form.rbをインスコ。
そしてヘッダとフッタにごにょごにょ書く。
(↓現在のヘッダ)
<%= navi %>
<h1><center><%= @html_title %></center></h1>
<div class="main">
_ (↓現在のフッタ)
</div>
<div class="sidebar">
カウンタ:<%=counter%>
<b><%=calendar2%></b>
<%=recent_list%>
<%= namazu_form("../cgi-bin/namazu.cgi") %>
</div>
<%= navi %>
_ namazu.cgiの場所はdiaryを置いた場所からの相対パスだと思う。この記事書こうとして、htmlタグが解釈されて変な表示になるのに悩んだ。結局< >とsrc_inlineを使って書いた。
_ うにゃ [おかえりなさーい!]