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2014-12-03 [長年日記]
_ 意見の違いを認め合ったうえで妥協点を探る。これがディベートだ。自らの意見をすべて呑んでもらおうというのではないし、相手の意見を全面的に受け入れることでもない。人の考え方はそれぞれ異なっていることは自然なのである。そういう意味では、ただ考えを聞くだけの会話の中において、それを目指そうとするのは間違っているのかもしれない。そこにおいては、彼我の思いにどれほどのギャップがあるのか、まずそれを把握するに留めるべきなのだ。俺はだから、今日は間違った反応をしていたのだと思う。俺の思考は、俺が望むほどに柔軟ではないのだ。しかもこの行為は多くの制限のもとになされねばならない。例えばいさかいは起こってはならないこと、食い違う意見の元となっているかの対象の考えを、己の主張に無理矢理寄り添わせるように偽装しないこと、そして再び、それぞれの境遇の違いを認め合うこと、などである。難しすぎる。人間嫌いが酷くなる一方だ。平和の裏にある考え方の相違、境遇を比べあって不当や不遇を感じること、コミットしないこととコミットできないことを混同する不見識、しても意味の無い反省や後悔。そんなものとまともに向き合って、それでも人生は素晴らしい、楽しいと言えるのか。こんなことばかり考えてるとインポになっちゃうよ、俺。だが、俺にはまだもがく余地はある。最終的には感覚のようなもので決めざるを得ないかもしれないが。未来において完全に諦めることができるように、今諦めずに取り組むことはきっとあるだろうと思う。
_ 破れたジーンズがもう一本あるので、こないだのように当て布を当てて補修しようと思った。ダイソーで針と糸を買うと、糸を通す穴のあるところが二つに割れている針。そうか!これならノーベルさんの糸通しがいらないかもな。しつけ糸も買った。当て布は家の中を探せばなんかあるだろう。帰宅。しかし大事なものを忘れた。というか買うことに気付けなかった。それは、待ち針。おお、おお、おお!
_ 最近ヴェルコールのことが気になっている。今では「海の沈黙」だけが岩波文庫で再版を重ねていて、またそれだけが評価されていると言っていいようだ。先日面白く読んだ『人獣裁判』を、百科事典程度の知識を集めて数時間のための駄文を書いたのだと批判する方もいるようだ。俺が面白いと思ったのは、1950年代においてもサルの知性を検証する実験がすでになされて、ある程度の成果を収めていたらしく思われることだった。『海の沈黙』はいずれ、朗読してみたいと思う。実は朗読は結構好きなのだ。システマティックに練習したわけではないが、やってみると面白いかもしれない。ところで、そのヴェルコールの本を2冊入手した。『六つの声』(白水社、小林正、1954、原文は1950)と『夜の武器・昼の力』(新潮社、杉捷夫訳、1953、原文は1945と1951)。まさに人間足らんとする魂の苦悩とか帯に書いてあって、今はちょっと読む気がしない。