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2015-05-25 [長年日記]
_ マタイ受難曲のCDを見つけたので寝床で聞いてた。バッハは非常に美しいメロディを作る人だが、ここに歌われている曲はキリストの最期に関する悲壮な物語なのである。なぜこんなに美しいメロディがこの酸鼻を極める物語に添えられているのか。ことにキリストの受難に関しては、そのシーンが感動的過ぎて多くの芸術作品のモチーフとなっているのだが、この人の身に起きた惨事は、その凄惨さゆえになのか、かえってその事実としての残酷さから切り離されて清らかで聖なるものへと転換されている。その死骸を緻密な手順で解体していって最後にはこちらにとって聖なる存在へと転換していくイヨマンテにも同様な力学が働いているし、世界中にある生贄の儀式に同様の原理が働くのだろう。生贄が惨めであればあるほど、そのあとに転換される聖性もまた大きいものとなるかもしれないのだが、何故だろう、かつて生贄にされた羊の中で、イエス・キリストを越えて聖なる存在となったものはいないのである。屈折した野心を抱いてキリスト以上に凄惨な死に方を試した者たちは多くいるだろうが、彼らは失敗したのだ。かろうじてカール・グロガウアーと言う人がキリスト自体となることに成功したとだけ伝えられている。成功するためには生前に何が行なえたかが必要だからなのだろうが、一方凄惨さに対してさえ人は飽きるのだ、と考えることも可能なのである。気分よからず。