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2021-05-08 [長年日記]
_ 土曜日。女子カーリング予選、日本・道銀チーム敗退となったらしい。ずっと予約録画してたが、今朝のR1のニュースで、カナダ・カルガリーの放送局スタッフがコロナに感染したために放送ができなかったらしい。そう言えばここのところ録画されていなかった気もする。試合の結果がデータとしてしか公開されていない状況で、このニュースを報道していたスポーツ解説者も解説に苦戦していたのが物悲しい。日本チームもなかなかの苦戦だったようだ。吉村沙耶香さんの悲しむ顔が想像されて、俺も物悲しいよ。しかしまだ北京五輪参加のチャンスはあるらしい。開催されればの話だが。日本五輪も開催はかなり危ぶまれている。感染拡大を懸念する人々が選手個人のSNSに「中止を呼びかけて」などと書き込む事例が多いらしい。池江璃花子さんがそのことに困惑をあらわした、などというニュースもあった。個人的にはそろそろ中止が表明されることになるだろうと感じるのだが、これに人生のかかっている人達には厳しいことには違いない。自分の発言とは知られたくない反面その発言が何かに影響を与えることを望んでいる。そういう矛盾した存在が生まれているということだ。匿名でいることにはそれなりの慎ましさも要求されるのではないか?我が身にも反省材料だが。
_ [読書] 新渡戸稲造『武士道』
読み続けている。1899年、新戸部氏38歳の手になるこの書は、日本文化と日本人に対する誤解を解くことが主眼と思われるが、そのためには時に和洋の類似の例を挙げある時には彼我の優劣を語る。ちょっとしたユーモア(例えば、婦人の『婦』は箒を持つという形意だがこれは箒を持って夫を攻撃または自身を防御するの意味ではない、とか)も感じられる。「愚妻」という表現を皮層的に受け取って女性蔑視と見るのは当たらず、自分と同体と見る故である。妻を褒め称えることは自分を褒めることと同じく悪趣味である、という感覚には同意できる。武士の社会は上から下まで「自己否定」で出来上がっていて、主君は天に仕え、士は主君に仕え、妻はその夫に仕え、それでいて彼らは彼らが仕えるものの奴隷ではない。武家社会に限定されることかもしれないが日本はこんなにも不思議な国だったのだ。この後この書は、武士の考え方がさらに民衆を感化させたこと、1899年現在武士道は生きているか、その未来は、といった記述へと続いていくようだ。青年新戸部稲造の新刊に驚きを持ち興味深く読み進めるアメリカ人読者のように続きを読もう。
終章に何か納まりの悪さを感じつつ、読了。体系としての武士道は消えゆくも桜の花の香の如く残るだろう、という読後感(必ずしもそう書かれている訳ではない)。まあ、2021年の人間にも時折は侍のような生き方が理想的のように思えることはあるので、少なくもその程度には武士道を思わせるものは生き残っている、と言えば言えるだろう。
_ 夕方からウォーキング。久し振りに三ツ池公園まで歩く。そろそろ暗くなろうという時間に到着。アヤメなのかショウブなのかカキツバタなのかわからない花が咲いていた。アジサイの蕾も出ており、ひと月も経てば雨の季節なのだと知る。その後、富士山盛りで有名な蕎麦屋が開いていたので入る。一度は食べたかったし写真で見るとそんなに大変な量とも思われなかったのでつけ天で注文。来たのを見て後悔したが迷っていれば蕎麦が伸びる。クライミング!始めは勢い良くズズッと啜っていたが、終盤は蕎麦を箸で口に押し込んで咀嚼・嚥下というそばっ食いにあるまじき戴き方となり何とか完食。だいぶ前になるが東白楽の「たち花」でわんこそば食べた時以来の大量の蕎麦。無理。もう当分そばはいいです。年甲斐無い。
富士山盛食べた後はそんな気分になりますよね、わんこそばまだやってるのかな?懐かしいですね
あんたも食べたことありましたかw たち花、やってるみたいですよ。良く長距離ウォーキングで前通る。