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2021-05-24 [長年日記]
_ メランコリックな状態はしばらく続いている。これが酷くなると、"普遍的に価値のあること"なんてどこにも無いのでは無いかと言う具合になってしまう。もともとそんなものなど無いのかもしれない。賢い人はそれを知っていて、価値なんかなくても生きられる術を身につけているのかも知れない。しかしそれが本当に無いのだとすると、生きることにも意味は見出せない。死生学に照らしてみると、良く生きることが出来ないのだから死に方だってどうでも良い、何なら今でも良い、なんて言うことになりかねないだろう。では本当に価値あるものなど無いのだろうか?そんなこと思いながらも夜のヨーガに。やっているうちに思ったのは、これは価値あるものを求める行為ではなく、本来のあり方を見つけるための方法論なのではないかと思った。仮にうまくいったとしても、それは本来のあり方なのだからせいぜい当たり前に戻っただけでありそれ以上に何か素晴らしいものを与えてくれると言うわけでは無い。柔軟な身体を手に入れるための訓練ではなく生き方に関係したものだ。だからこの道をできるだけ外れないようにすべきなのだ。仮に足腰が立たなくなってもヨーガを行うチャートラ(生徒)であり続けるべきだ。そこで言われるヤマとニヤマも、それを守ることができたとしてもせいぜい当たり前の状態に行き着いただけで、それを戒律のように守りさえすれば悟りが得られるという保証のようなものでは無い。ただその道をなるべく外れないように。仮に何かの偶然によって自分がとんでもない大罪を犯してしまうようなことになったとしても、その道がもはや自分の前に続いてはいない、などと思ってはならないのだろう。本来のあり方さえ価値のないものであったなら、そもそも自分は存在すべきでは無いものだ。本来のあり方にたどり着けた時に、そんな厳しい問いに与えねばならないのかも知れないが、今はその本来のあり方に戻るためのことをすれば良いのだと思う。それは渇望から逃れられる可能性なのだから希望である。それと同時に、特別に良いことは与えられないのだから絶望でもある。希なる望みと絶たれた望み。どちらであれ自分には大変望ましいことのように思われる。『定年後』にはこんなことは書かれてはいなかったが、本当に定年後に何も見つけられなかったとしても、ヨーガだけは私と共にあることだろう、そうあろうとさえしていれば。
_ [漫画] 『絶対可憐チルドレン』19、椎名高志、小学館、2009。
これもう60巻とかになるらしいんだけど、ちょっと集中的に読もうかなと。で、蕾見管理官(80歳超えてる美人)がエロいセリフとして「あなたは今まで自分が食べたパンの数をおぼえていて?」ってディオさまのセリフ言うの。椎名さんのこういうギャグ大好き。
_ 続き。おまけ漫画の紫穂のセリフ。「これは萌え?萌えているのは私?」だから椎名さんのこういうギャグって大好きさ。やばし、寝不足になるかも。