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2016-05-22 [長年日記]
_ GWの帰省期間も含めて結局一か月くらい利用してなかったジムに久々に出かける。自己流のヨガやって筋トレと思ったらだいぶ体力落ちてたのでメニューの1/4だけやって帰宅。NHKスペシャルでは「人生の終い方」というシリアスな番組。そういえばこないだの「モーガン・フリーマン時空を超えて」では死後の世界の存在の是非が今もって不明であるとあった。私はエピクロス流の唯物論を信じていて、いかに心の働きが複雑であろうと死によって心は無くなってしまうと”信じている”。同様に考えている科学者がいる一方、臨死体験をきっかけに唯物論を信じられなくなった科学者がいる。量子もつれを引き合いに出して、人の意識は遍在すると考えている科学者もいる。こんなに科学者がいて全く矛盾する議論が乱立している以上、これはもうどのように”信じるか”と言うレベル以上の議論ができないのではないかと思われる。たとえば唯物論が正しいとしても、意識が消失するその”瞬間”は主観的には無限の長さと感じられないとも限らない。もしそうならば、それは人は死なないということと同義なのか。それとも永劫に死の直前の苦しみが続くという地獄の存在証明なのか。この話題は議論にならない。だが、たったひとつだけ、永遠の命を得る方法を提案していた科学者がいたことに同調した。それは、たとえわずかであれ、人の記憶の片隅にしみとおる何かを残すこと。そのささやかな記憶を、その人全体を詳細に表現する情報の縮約であると考えることができて、かつもしもその人を表現する完全な情報の再構成が、実質的にその人を再生することと同義であると捉えるならば、人の心のほんの片隅にであれ記憶されることは、部分的に生き続けるということであることになる。「詩曲」の作曲家、敬愛するエルネスト・ショーソンのささやかかつ野心的な望みがそれであった。であれば、完全に忘れられることは完全な死と同義ということになる。「それはどんな気がする?」ボブ・ディランのそんな問いに答えることは苦しい。ショーソンの野心もディランの問いも遥か昔に発せられたものなのである。この分野に関する思索は驚くほど歩みが遅いのだ。