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2016-05-29 [長年日記]
_ [漫画] 「極黒のブリュンヒルデ」17,18(完結)、岡本倫、集英社、2016.
マンガを連載で読まなくなって何年もたっており、すべて単行本が刊行されてから読むようになっているのだが、その方法で困ったことが起こるのは、刊行の間隔が空いているために前作とのつながりがわからなくなることだ。そしてそれがまた本作のラストのように、以前現れたキャラクタが再登場することでオチをつけるような場合には、それがオチであると知るためには過去を振り返らなくてはならない。コミックスは絶版のリスクに備えて新刊は直ちに購入して完結するまで読み始めない、というのが正しい読み方なのかもしれない。
このハーレム漫画はハーレムが終焉するところまで描いている。まあ他にあまりそういうの読んだことないし、私はこの漫画そのものについて何かを語ることはほぼできないのだ。「ナエナロのヘニムヘーロ」が面白いというだけで興味を引っ張り続けることはできない。でも最後まで読んだ。そういう事実を記しているだけのこの文章は感想文でもなんでもない。人に勧められるかと問われてもわからないとしか言えない。私の漫画脳は退化しようとしているのか。
_ [テレビ] 「真田丸」
今日は夕方少し前に食料を買いに近所のコンビニに出ただけ。気分障害と言うのではないが何となく物悲しげな気分が朝から続いている。真田丸は毎週楽しみにしているのだが、見て気分がスッキリ晴れた、とはなかなか行かないにせよ楽しめている。登場人物が全部個性的に過ぎる感じがあって、それがむしろリアリティを感じさせる。ことに奇妙なのは大泉洋演じる真田信幸の元妻おこう(長野里美)で、登場の時から病弱ぶりが爆笑ものだった。NHKのサイトのインタビューで、その演技は志村けんのコント「もしも元気の無い芸者がいたら」を参考にしたら、というアドバイスを三谷幸喜氏からもらった、ということである。吉田羊(ずっと”よしだひつじ”だと思ってた。この人の芸名、本名から来てるらしいが、吉田戦車とか吉田メタルとか吉田カバン、あ、これは芸名じゃ無いが、なにかそんな唐突さを感じる)の稲(小松姫)はのちに女丈夫と称される行動をとるようで、本田忠勝の娘にふさわしい故事。
番組ラストで紹介された群馬県沼田。河岸段丘の城下町の眺めに興味を持った。行って眺めてみたい土地だ。
_ というわけでDVDの山はほぼ整理が終了。しかしそれで期待したほどには魔窟が片付いていない。それが今日のメランコリーの理由の一つかもしれない。自覚される理由はほかにもいくつか。やれることをやれる程度にやって明日に顔を向けるより無いのだろう。理想と現実の間にはいつもギャップがあるが、理想を捨て去れば現実は腐っていくだけだ。
_ ふと見た「ダーウィンが来た!」で、オーストラリアに住むクジャクグモのセックスのことが紹介されていた。オスの腹部の背側にクジャクの羽根を思わせるきれいな模様があり、クジャクと同様求愛行動に使われる。だがそこにリスクがあり、元気な子孫を作る能力があることをアピールするための激しい踊りをメスが気に入らなかった場合、メスはオスをセックスパートナーとしてではなく、食料とみなして捕食する。一方オスは求愛行動の最中におりおりメスの頭を撫でる。そのことがメスの攻撃性を和らげるのである。そして、多くの昆虫のセックス同様、行為が終わったならオスはさっさと逃げ出す。さもなければ再びメスにより捕食されるリスクがあるためだ。人間のセックスはこのようなシステムを少しルーズに、あるいはソフトにしたものと見ることもできるだろう。セックスが時に男女間の戦闘のように見なされることは、あながち陳腐な比喩ではないのである。男性が、ときにその結果に見合う程度をはるかに超えて求愛行動にコストをかけている理由の一つはここにある。最も危険でかつ甘美なゲームであり、遺伝子によって誘起された強迫観念であり、比喩でなく食うか食われるかの真剣勝負。