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2011-03-18 [長年日記]
_ この日記最近会社から帰ってきて割とすぐに書いてることが多い。夕刻になると少し気分障害を感じるので、記事の内容も少しメランコリックになっているかもしれない。
さて、バタバタしてるうちに3連休になろうとしている。遠出をする気にはならない。余震の影響の無さそうなところに逃げたとしても家が心配で楽しめないだろう。思えば昨年は東北地方にセンチメンタル・ジャーニーへと出かけたのだった。福島、桑折、金田一温泉、三戸、浅虫、青森。彼岸団子を始めて食べたっけ。そう、もうすぐ私の誕生日だ。今までにいろいろな思いで誕生日を迎えたが、今年は一層思いで深いものになりそうだ。
昨日庚申様に詣でてその後考えた。メンタルクリニックでもらっている処方箋は「生活リズムを崩さないこと」と「今できることに集中すること」である。規律正しい生活は大抵の宗教では奨励していることだと思う。一方神や仏に祈ることには、不安・動揺・怒り・悲しみ・迷いといった心理的にマイナス要因として働く心の動きを、「一時神仏に預けて」今現在の人生に集中するという効果がある。そのように、心理的なマイナス要因を一時引き受けてくれる存在というものは、それを仮定した時点ですでに実在することと同義になるのではないか、ということだった。迷いが起こりそうになったときには不動や金剛が切り捨ててくれるから、迷うことを恐れずに行動すれば良い。何を言うべきかに困ることを恐れて言葉を発することをためらってはならない。何を言うのが正しいことなのかは、その言葉が必要となるときに与えられる。宗教の機能面だけを強調する私の考えはまさに無神論者のそれだろうとは思うが、おそらくただひたすら理性的に生きようとすることを続けられるなら、それは宗教的生活と矛盾はしないはずだ。違っているのは、崇拝する対象の実在をどのようなレベルで実在であると捉えるか、その点だけだろう。
とりあえず大規模停電は避けられた。身の回りを片付けながら連休と誕生日を迎えると言うのも悪くは無いだろう。スポーツジムが休業になるのは痛い。ヨガやるスペースが今家には無い。
そう言えば、ヨガというのもそうだった。生き方そのものであって神仏の存在を仮定する必要は必ずしも無いにも関わらず、動き方の規律や瞑想・呼吸、時には発声などを用いて、良く生きる方法を目指す。その在り様は限りなく宗教に近く、宗教的生活と矛盾は全く無い。多分ヨガを一種の宗教だと思い込んでいる人も多いくらいだろう。