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2016-09-23 [長年日記]
_ 会社帰りがいつもより少し遅くなったので夜ヨガサボり。とはいえあちこちのお店は十分開いてる時間だったので、セキュリティグッズ見たり”なめ”たネジを外すビットを買ったり本屋の漫画コーナー眺めたり…お、ビリーバットの最終巻が出てる。これ読めばしばらく浦沢直樹は読まなくてよくなるなあ。購入。
夜ご飯家で食べるのが普通だがまだあまりお腹空いてない。でも今のうちに食べとこうと思って時々行く地元の、辛くてにんにくたっぷりのラーメンを出す店へ。入るとどうも様子がおかしい。どうも店主が代替わりしたようだ。最近店を休みがちだったし、ついにリタイアしたか。そういえばこの店のそばにはかつて住んでいた寮があった。入社間もない頃だ。日曜は寮の飯が出ないのでうっかりここで食べて翌日まで息がニンニク臭かったことが良くあった。その頃は先代のの店主もだいぶ元気だったし、私も必ずそこでビールを飲んだ。そんな思い出がある。
麺を半分にしてもらって大辛、それと餃子を注文。先に麺が来たのでずるずる食べる。餃子が来る前に食べ終わってしまってちょっとタイミングが悪かったなあなんて思いながら読みかけの新聞を読む。しかし餃子がいつできるかが気になってかなり斜め読みになる。来ない。もしや入ってないのか。しかし単に遅いだけのようにも思われる。ここで「俺の餃子入ってる?」とか気さくに声かけたり偉そうに主張できる男では私はない。それにやはり単に遅いだけと言う可能性も払拭できないでいた。そのうちあとから客が入ってきて餃子を注文した。その頃にはさすがの私も、おそらく私の餃子は入っていないだろうな、と思い始めていた。もう今更食べる気はなくなっている。ただ、伝票には餃子一つと書かれているのだから、勘定する時にそれをどう扱うかでまた少し悩んだ。「声をかけてくれればよかったのに」と店の人が言うかもしれない。世間的にも当然の権利として主張しないのはおかしいと思うだろう。わたしもそう思うこともある。だが今日の私は何故か店のホスピタリティを信じたいようにも思っていた。食べたいものには食べ時と言うものがある。あとから念押ししてやっとでてきてもそれは食べたいタイミングからはすでにずれている。大げさに言うと、注文が入っていないという時点で、食事の店としては取り返しのつかないことをしでかしてしまったのである。いややはりちょっと大袈裟か。結局、後から注文した客の餃子が出てきても私の方のは掟上今日子状態だった。それを確認して、私は伝票を持ってレジに向かう。そう広くも無い店内にいる店主含め3人の店員のうちの一人がレジをうち伝票を読み上げる:「餃子一枚…」そこで私はやっという「それ来てません」。ハッとしたその店員は「大変申し訳ございません」とすまなそうな表情になったわけだが、この件はそれでおしまいなのである。その店員がその場で店長にその旨伝えるのでもない、店を出た私を店長が追ってくるわけでもない。こうして、彼が私に謝罪できる機会はひょっとすると永遠に失われたかも知れなかった。危機管理としてはまずい対処の部類だろうな、と思いつつそばのスーパーで、切れかけている醤油を買う。そのあともなんだか用の無いコーナーをうろついてしまった私は、やはり少々動揺していたのだ。あるいはやはり怒りを覚えていたのだ。だが、そのおかげでずっと探していた三幸製菓の新潟仕込みのり塩味を見つけたので、これは良かった、と思った。餃子の仇を煎餅でとる、ということでもないが、短い時間の間に何度も感情が動いた。書いてるうちにBSプレミアムでエヴァンゲリオンが始まる。♪ざんこーくな天使になーれ!〽だいぶ端折った。怒るべき時にはちゃんと怒るべきなのだろうか?だが私は怒り方が上手でない。桂子さまと同様私も導火線は短い方だが、そのくせ下手な怒りを表わしたときに傷つくのは誰よりも自分なのだ。やっと近ごろそのことに気付いたのだ。たとえ怒りを抑え込んだストレスで胃に穴が開こうと、怒りを抑えこむ方がきっと私には健康的なことなのだ。ビーストやオーク、あるいはキンダーガーデンに生きる”いい大人”の仲間ではない、と思えるだけで私には十分慰めだ。エヴァ終わった。そういえば最初に見たエヴァはテレビじゃなくて、ビデオだったなあ。隔世の感がある。