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2013-04-28 [長年日記]
_ [特撮] 獣電戦隊キョウリュウジャー
空蝉丸、ウッチーとなる。キャンデリラがアイドルに変化して登場。見覚えあるなと思ったら、「かんなぎ」のナギの中の人こと戸松遥だった。一目でピンとこないようでは俺もまだまだだ、と思う。そういえば「かんなぎ」コミックって続き出てないのかな、と思ってアマゾン検索したら6月発売予定だそうだ。アマゾンで買うと新刊のお知らせが勝手にメールで届くから買い忘れたあげく絶版になるというリスクが減るのは良いと思うが、俺の趣味嗜好が完全にアマゾンの手の内にあるという身の毛もよだつ状況でもある。誰の漫画で読んだかさすがに忘れたが、書店でエロい本を買うときにはサブカル系の雑誌だのユリイカだのを一緒に買って「痴的興味」本位の本来の目的をかく乱するというメソッドがある。有効性は今一つ不明だがこのメソッドに従うなら、俺は大して興味もないジャンルの買い物を永久にアマゾンで続けなくてはならないということになる。そんなことしたって本来の目的の買い物とかく乱的なそれとの分離はデータ解析の力であっさりとなされてしまうはずだから無駄だと思うので実行しない。技術的特異点以降にはネット販売も人間の手から知性を持つ機械の手に渡ってしまうかもしれない。彼らに人間の恥ずかしい性癖に関する情報を預けてしまうことは、もしかするとターミネーター以上に旧・知性体である人間にとっては脅威となることなのかもしれない。それを言うなら経済活動全体が彼らの手に渡る脅威を語るべきなのだが、とりあえずアマゾンのデータは卑近な例として現実に今俺の心胆を寒からしめるものなのである。学校いく時間だ。仮面ライダーウィザードは帰ってから見る。
_ 面接授業終了。今回もまたエキサイティングな授業だった(先生の物言いは終始穏やかなのだが)。芸術という日常においては問題にする必要のないものに感じていた問題意識を大いに刺激してくれた。古典芸能の知識があると特撮番組をさらに楽しめるように、コンテンポラリー・ダンスとか20世紀の絵画、ジョン・ケージの音楽を楽しむための手掛かりとなる多くの事柄に触れていく。特に引っ掛かりを感じたのは、秩序と無秩序に関するベルグソンの『創造的進化』を引用するジョン・ケージ『サイレンス』。ベルグソンは無秩序はない、ということを言っているようでそれをケージが受けて「この不調和は多くの人がまだ慣れていない調和」という。問題にすべきかどうかわからないが、ここでいう不調和とか無秩序には理想的な、または完全な状態ということが概念上許されるのかどうか。それは「ない」と書いたベルグソンは、理念としてはあるけれども現実に完全な無秩序はない、と考えたのか、それとも理念上も無秩序はないと考えたのか、それが大変気になっている。やむを得ず帰り道の有隣堂で「創造的進化」を買うしかなかったのだが、だいぶ手に余る厚さで、今のペースだと1年かかっても読み通せない。ベルグソンは学生時代に「笑い」を読んだことがある。だがおそらく対して理解できなかったのだろう。そして、これが理解できないのは例として多く引用されているモリエールの喜劇のことを何も知らないせいなのだと思って、以来モリエール喜劇を岩波文庫でいろいろ読んでみた。だが、モリエール喜劇を文章化したものが俺に肝心の笑いを引き起こすことはほとんどなかったようだった。それ以来ベルグソンに触れることはなかった。『創造的進化』という言葉は創造的でない進化の概念がすでにあって、それに対する挑戦的な意味でつけられるタイトルと思う。ちょろりとめくってみたところ、彼が挑戦しているのはアリストテレスのようだった。そこだけ見てもこの本を通読するのが厳しいことだと思う。まあ買ってしまったのだからそのうち目を通すのではないかと思う。少なくともその後寄ったインド料理屋でタンドリーチキンをかじりながら読めるような本では当然なかった。近頃は創造的破壊とか破壊的イノベーションとかよく言われるので、タイトルに引っかかってしまっただけ、ということもある。
_ 授業の間に思いついたことがあった。技術的特異点が起こって、仮に人間を超える知的機械が知の世界の主流になったとしても、彼らには持つことのできない人間固有の価値観は残るかもしれない。そのヒントはディックのSF作品にあった。人間は共感する能力を持っている。ヒトはヒト同士だけではなく、いやそれどころかヒト同士以上に、ヒトでないものに共感する。小さな動物たちに対しては言うまでもなく、たった一輪の花が荒野に咲いていたらそこでヒトは何かを共感する。それどころではない。ディックはそこまで書いてはいないと思うが、広大な砂漠に大きな岩が横たわっていたら、やはりヒトはそれを見てなにかを共感する。俺は「共感する」と書いているが、"共に感ずる"その"共"とは一体、だれと共になのだろう。だが一人で感じているのではない。自分の中から自分のコピーを取り出して砂漠の岩にそれを置いて、語りかけ始めるのだ。しかし相手は無機物だ。なぜそんなことができるのだろう。なぜ人は石や水のような明らかに知性とは無縁なものにさえ共感しうるのか。そしてその共感しうるという能力が、人間とレプリカントを明瞭に区別するものであったように、技術的特異点後の人間に残された唯一の知性に関する特徴、ということになるかもしれない。おそらく特異点後の知的機械は易のような占いをテクノロジーとして採用することはないだろう。