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2013-07-13 [長年日記]
_ 今日は午前中国会図書館にいき仕事がらみの複写と川越街道関係の複写。午後は茗荷谷駅そばの放送大学台東区学習センターに行き、宮下志朗先生の講演「古典を引き継ぐこと −−ラブレーの翻訳を終えて」を聴講してきた。うちには岩波文庫の渡辺一夫訳が全巻あるのだが、確か良くわかりもせずに酔った頭で第2の書くらいまでしか読んでいない。この神聖にして冒すべからざる渡辺訳も、日本語の変遷とともにそれ自体理解しがたいものとなって行く。そういう二次的創作物としての文学になった翻訳物もいくつかある。逍遥のシェークスピア、四迷のツルゲーネフやゴーリキー、鴎外の「即興詩人」。若松賤子の「小公子」などもそう言えるだろうか。宮下先生は「古典はできるだけ読んだ方が良いですよ。若いころ読んだってよくわからないじゃないですか」などとおっしゃる。ああそうなのかなあ、と俺も思う。知識が増えていくことにもよるけれど、体験を重ねないと著者の意図が実感できないことは多々ある。だが一方で古典的名作が、著者何歳のころの作品であるのかということがある。古典とされるものは必ずしも著者が多くの経験を重ねた上で描かれたものばかりではないのだろうと思う。それでもなお読者側にはそれを読み解くための経験が要求されるとしたら、それはどういうことなのか。少なくともそこは理系の文章とは全く異なる側面なのであろう。講義終わって先生の著作にサインをもらっていた女性が、先生はラブレーのどこに魅力を感じるのかと問うていたのを聞いた。先生は「言葉遊び、そしてその奥に見えるラブレーの思想」とおっしゃっていた。眩惑的であまりにも多弁すぎるその膨大な語彙の向こう側に反戦的な思想や反カトリック的な思想が見えてくるというのである。そこを垣間見るためには相当の研鑽をつまなくてはならないのである。高い山のてっぺんに立たないと見えない景色があるのと同様だ。
_ [漫画] 石ノ森章太郎。
石ノ森章太郎(と手塚治虫)にスポットを当てたBSの番組をやっている。ファンタジー・ワールド・ジュンのように自分の感性をストレートに作品にしたものが受け入れられるということは石ノ森の天才の証であり、自分は職人に過ぎない、とさいとう・たかおが言っている。晩年のM.A.宣言・萬画宣言に俺はなかなか賛同できないでいる。石ノ森章太郎の考え方は俺にとってはあまりにも前衛的だ。最晩年の作品「時ヲすべる」では「久々のSFファンタジィで読者と共に遊びたい」などと書いていた。共に遊ぶというのがどういう意味なのか。俺を含めて当時の読者はこの言葉をどう受け取ってどう共に遊べばよいのか理解できなかったのではないか、と思う。もしかすると石ノ森先生は萬画という概念に思い至った時に、その従来の漫画とは異なる新しい味わい方も思いついていたのではないのか。