RSSフィード:http://alpha-ralpha.com/diary/index.rdf
2016-06-06 [長年日記]
_ ヨガの事でも書こうかと思ったがなんだか腑に落ちないことが立て続けに起こるので憂さ晴らしに書いておこうと思う。
なにかことが起こった場合、再発防止のためにフールプルーフのシステムを工夫する、というのがどうも当世流のように思われる。だが、それがなぜ再発させてはいけないことなのかを考えることについてはどうだろうか。事故を起こした時にすぐ「じゃあ『なぜなぜ分析』をやって根本原因を見つけましょう」とかやるのもいいが、逆に、一歩間違ってたらさらにどんなに悪いことが起こっていたかに思いめぐらすことはなぜかそれにくらべるとずいぶんと軽んじられているように感じる。やらかしてしまうフールは、場合によっては痛い目でも見ない限り気づきの能力を獲得することができないほどにフールであるかもしれない。当然のことだが、フールプルーフでフールを減らすことはできない。だが、それなら私達はベビーサークルに囲われていなければ愚かな行為をし続けてしまうような存在なのだろうか?そんなシステムが無くとも、道義的な思想や十分なリスク予測などによって自発的に再発が防がれることの方がどんなに恒久的対策か知れない。もちろん確実な対策ではない。個人の気づきのレベルにも依存することだし、道義的な問題に対して明確な回答を与えるような便利な論理体系はおそらく現在においても存在していない(いや、むしろ現代であるからこそ失われているのかもしれない。禁忌の存在とそれを犯した場合のペナルティというものがかつてはそういうシステムとして存在していたのだ)。そんな感じだから、どれだけ考えに考え抜いて真摯な反省をおこなったところでもう一度同じことが起こってしまうかもしれない。だが、そうと言ってその困難から逃げてしまっても良いようには思えないのだ。だから、愚かな行為とはどんなものであり、そのためにどのような悲劇が起こるのかを学習することには意味がある。古典文学や聖典・名画・名作といったものに接する意義はそういうところにあるのだろう。まずい、寝る時間遅くなった。