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2016-06-28 [長年日記]
_ 会社でビジュアルスタジオのインストールしてたんだが一日中掛かっても終わらず。いろいろ手順がまずかったっぽい。
帰りにまたコミュニティハウスに寄り、スーパーで買ったトルティーヤとローストチキン、コンビニで買ったトマトジュースとホットコーヒーで軽く夕食を摂ってから学習。ロビーで飲食ができるので、近頃ここで腹ごしらえをすることも多くなった。いろいろな人が利用するのだが、あまり見苦しい人は寄り付かないようだ。このあとどこに分かれていくのか母と娘らしきペアが待ち合わせして娘の方が弁当を使っていたり、放課後の男子高校生風の2人がなにかの打ち合わせをしていたり。今日は少し人が多く、女子高校生が座っておにぎりを食べているのと同じ丸テーブルの空席に座って上記のメニューを平らげながら、帰り際に買った西岸良平の「鎌倉ものがたり」最新刊を読んでいた。前の巻を読んだ時もだったが、懐かしく読んでいたせいだろうか、ちょっとしたエピソードになんだかグッと来てしまう。泣くのをちょっとこらえて、そのグッと来たところに付箋紙を貼る。あとで日記のネタにするつもりなのだ。そんな時にちょっと思ったのは、女子高校生と同じテーブルで夕食を摂るなんていう機会はかつてあったのかどうか、ということだったりする。たぶんあったとするなら、それは私自身が高校生だった頃に、おそらくは部活(アニメーションを製作する部だ)の流れで遅くなったとき、同じ部員の女子と、というくらいだったろう。その後そんな機会はたぶん無かったと思う。こういうところでそんな機会を得たからと言ってその後何かが起こるという訳ではないのだが(それが節度とか常識とか言うものだろう)、先日もここで感じた奇妙な疑似的な親近感とも呼べない親近感が思い出された。互いに無関係で、特別な事件が起こらない限りは無関心に振る舞い、でも類似する目的があってそこに共通に存在している、という奇妙さだ。もしかすると、家族関係や近隣の住民との関係というものに代わって、社会におけるコミュニケーションはこういうものが主体になっていきはしないか。それは暗黙の共感であり、けれど互いに声を掛け合うことをおのずから禁ずる暗黙の拒絶であり、人の中の孤独、孤独の定義には当てはまらない孤独、必ずしもさびしいとは言えない緩やかな孤独である。首都圏にそして現代に暮らすことにおいては、この「関係」とも言えないむしろ「無関係」と呼ぶ方がふさわしい「関係」こそ似つかわしく好ましいものと思える。というわけで今日も社会学ヒトこま終了。いつの間にか単位取得試験の持込み可否が発表されてた。ラテン語はテキスト・ノート・和羅/羅和辞典の持ち込みが可能。救われた気分だ。社会学は持込み不可。なので一通り講義を視聴し終わったら、何年かぶりに暗記カードやパネルを作ってみようかなと思っている。