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2016-06-26 [長年日記]
_ 声、そして音。
先週書こうと思っていて機会を逸していたが、先週の「ラジオ深夜便」の”明日への言葉”は、詩人・吉増剛造、そしてこの間亡くなった冨田勲さんの言葉が聞けた。吉増さんの詩をちゃんと読んだことは無いのだが、多くの詩人がリスペクトしていることで名を知っていた。今、東京国立近代美術館で吉増さんの展覧会が催されていて、自ら吹き込んだ多くのカセットテープが展示されているのだそうだ。私もカセットテープの洗礼を受けた世代で、今は手元にほぼないが、今なら問題になりそうな生録などという趣味も流行っていた。ソニーのカセットデンスケが欲しかった。今も少し朗読に興味があったりもする。文字以外の手段で文学を表現することには、取り上げられるべき多くの問題があると思うのだが、どういうわけか音声データは映像データほどにはデータベースになりにくいような気がする。とある音をキーとして部分を取り出すといういわゆる検索がしにくいことが理由であるようにも思うのだが、それは何故なのかも良く解釈できていない。少なくとも、キーワード登録しておけばいつの間にか聞きたい番組が録音されているということになりにくいのだが、そういうツールはあるのだろうか?ちょっと前になるが、図書館で、与謝野晶子やら北原白秋やらが自ら自作を朗読しているCDを借りて聞いたことがあり、そこから受ける印象が文章から受けるものとずいぶん違うという違和感がずっと引っかかっていたが、まさにその与謝野晶子の朗読についても吉増さんは語った。あれはそのようにイメージがあって語ったのではなく、いざマイクに向かうとそんな風にしか語れなかったのであろう、とのこと。このことはとても問題だ。たとえば、口を開けば朗々として説得力のある語り口を持つ人に、ペンを握らせて同じことを絵で描いてみろと言ったら、彼はどんな絵を描くか。知的な人の描く絵ほど描かせてみれば幼稚園児の描くチューリップか何か知れないお花だったり頭足児だったりアメフラシのような四足動物だったりすることは珍しくない。あるいは優れた文筆家に流行歌を歌わせればとても何かの表現とは思えないような外れ調子であったりもするだろう。思考というものは頭の中にあるだけでは未だ思考ではなく、どのようなスキルでどのような手段によって表現されるかで実質的にはまるで異なるものとなってしまう。そこが不思議だ。
冨田さんの話は、初期の活動でのNHKからの注文のめちゃくちゃさや手塚先生にジャングル大帝のテーマソングの1オクターブ変化する冒頭の「「アーアー」にそれじゃあ子供が歌えないからと書き直しを求められたが「今やってます」と言い続けて退けたこと、宮沢賢治は生きているうちに取り上げたかったがそれを歌うのはスイッチを切れば消えてしまうような存在であることが望ましかった(おっしゃってた時のニュアンスとちょっと違うが)ことなど。モーグを輸入して最初は全く使い物にならなくてどうしようかと思ったことは、以前タモリ倶楽部で見たことがある。タモリ倶楽部で話すのもラジオ深夜便で話すのもほとんど雰囲気が同じで愛嬌がありながらも真摯な思いが伝わったものだった。そんなわけで今、またしても聞くということに強い興味が沸いているところ。