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2013-06-25 [長年日記]
_ スカパー!がネットワーク接続エラーになる件。LANケーブルがだめになってたので交換してOKに。そもそもアクセスランプが入側も出側もついてなかったことにまったく頓着してなかったというのが愚かだった。接続エラーが解決した途端に録画領域が足りなくなって困るという。この現象を経済学における石炭問題にたとえることは簡単ではあるが、これは一方で記録的資料の入手はそれを怠った途端に難しくなってしまうことでもある。俺は「断捨離で家を片付ける」という考え方や、「捨てる技術」(この著作は、かの野口悠紀雄氏によって技術などと呼べるものではないと反駁されている)に書かれた考え方には全く賛同してはいない。1年間手を付けなかったものであっても10年以上たった後に手をつけることは俺には良くある。そのときに、「やはり捨てないでよかった」という気持ちもまああるが、それよりも大事にしたいのは、過去のある時点である動機付けがなされてそれを入手したという、その過去における自分の問題意識なのである。これはそれを入手した時の時代の証言なのである。かくして部屋の中はどんどんもので満たされていくし、ハードディスクの中は他者にはその価値を見出すことがどうしてもできないであろうコンテンツによって満たされていく。まさに、「自然は真空を嫌う」とアリストテレスが言った通りのことが、俺の家と家にある記録媒体の中で常に実現されているのである。実際には自然は空隙だらけなのだから、俺の家は”アリストテレス的自然空間”、あるいはフォークトに倣って”Aの世界”と呼ばれるべき場所なのである。それで石炭問題というのは、19世紀の半ばに活躍したジェボンズというイギリスの経済学者が、今日においてもきわめて重要な「効用」の理論を広めるのに貢献した(効用理論のオリジンは少し先輩のドイツ・プロイセンの学者ゴッセンに帰されるものとされる)のと並ぶもう一つの業績である。いわく、石炭の効率的な利用技術が進めば進むほど、本来は石炭というリソースを節約するはずだった目的にもかかわらず、消費量の増加率が供給量の増加率を上回っていくというある意味悲観論的な分析、すなわちジェヴォンスのパラドックスなのである。これと同じ状況が、今日的問題としては記憶媒体の容量の増加とその使用量の増加にも見られるのではないかと俺は見ている。このパラドクスが実現してしまう原因はなかなか複雑なようだが、経済の現象が決して理性的な行動から生まれるのではないということの好例のように思われるのである。
_ [漫画] 水木しげる漫画大全集、21、29、81巻
第1回配本の3巻が今月の3日に無事刊行された。が、そのことにしばらく気づかず、全巻予約した横浜でおそらく現在も最大の某店舗型書店からも連絡はなかった。今日取りに行って尋ねてみたところ、どうやら毎月発行日が決まっているようなものについては連絡は基本的にはしないということのようだった。刊行が遅れる場合には連絡をくれるということだが、こうなってくると、店舗型書店でこのような全集を全巻予約することの意義は、在庫切れで入手できないリスクを防ぐことにしか無いことになる。刊行日を自己管理せねばならないのならば、アマゾンで買った方が良い。なぜならアマゾンの場合は購入履歴を元に新刊の連絡をちょっと怖いくらい的確にメールで知らせてくれるからである。この仕組みはこちらの志向が完全に把握されてしまうというリスクをはらむ反面新刊を入手できないリスクを減らしてくれるので、絶版恐怖症には良い薬となる。さらに、現物は、これもまた時として酷使ともいえるほど利便性の高い宅配便のシステムと密接に連携して、今回のように数巻同時に刊行されても重たい思いをして抱えて帰る必要がないのである。こうして、紙の本が電子書籍に代わっていこうという流れの中でさらに店舗型書店は利便性の点でさらに不利になっていくのである。店舗ならではのきめ細やかなサービスというのは不利を跳ね返すための一つの方法になりうるが、今回のことを見ると、店舗型書店を動かしているスタッフの中に、すでに敗戦色のようなものさえ漂っているように見えてしまうのである。ここ1−2年くらいで勝負が決定してしまうのではないか。街の本屋は、現在の形態からは想像もできないようなサービスを提供する空間とならない限り存続できないのではないか。そのように危惧されてならない。これが解決に直接つながるものとは思わないが、ネット書店になくて店舗型書店にあるものの一つは、直に書物に触れることによるリラクセーションと関連があるかもしれないということはヒントになるかと思う。大原まり子が書店に入ると必ず便意を催すように、書店という空間には特異性がある。その特異性が図書館においても実現されているのだとしたら、書店は"何かを売る"(それは将来的には必ずしも書籍類を意味しないであろう)ことによってさらに図書館との差別化を図らねばならないのである。その"何か売るもの"の一部はあきらかに、サービスである。だがそれが、書店の中に喫茶店を置いたり、何時間でも好きなだけ立ち読み(?)できる椅子を設けることなのでは少々安易な気がする。だったらただ座らせるだけではなく読書を邪魔しない程度の室内楽でも流してみてはどうか。あるいは単に閲覧の利便性を向上するのではなく、博物館のように見て歩く動線が意識された陳列の方法などはどうか。キュレーターのいる書店…あ、たぶんすでにあるよ、そういうの。絵本専門店にそんなのがあったような気がする。見せる本だからこそそういう工夫をするのだろう。そんな風に考えると、一つもしかすると読書家にアピールするような店舗がイメージされる。書斎そのものの例示をするショールームのようなコーナーである。そのエリアの真ん中には座り心地が良くて四方に向くことのできる椅子があり、手の届くところには整理法のメソッドに裏付けられた収納棚やロッカーなどがある。これがアピールすると、たぶん分厚く巻数の多い事/辞典や全集モノの購買意欲が増すことだろう…と思う。まあ責任がないので好き勝手に書いてるだけだが、子供の頃に友達の家に行って感じる驚きの一つは、勉強部屋が自分のそれとずいぶん違うということだった。そんな気分を思い出すよすがにはなるのではないかと思うのだ。カテゴリがマンガなのに全然漫画と違うことを書いてる。最近脱線することを前提に書いてて、ローラの発言より自由な日記になってやしないか?一応今回刊行されたのは、「忍法秘話」に掲載された全話、少年マガジン版「ゲゲゲの鬼太郎」の1、ビッグゴールド掲載の「不思議シリーズ(全)」、である。楽しみだのう、ヒヒヒヒヒ。そうですか、ヒヒヒヒヒ。
_ [読書] 「澁澤龍彦全集1」
いつものノリならば水木さんの漫画も寝床に持ち込んで眠くなるまで読みふけるのだが、うかつにほったらかすと時々猫の吐瀉物に汚染されてしまうのである。つい今朝がたも、すでにしみだらけになっていた澁澤龍彦全集の表紙には、抜け毛の混ざった黄土色の吐瀉物が載っており、いよいよ新刊本を買わねば気が済まないという状況になっている。まあダメ押ししてくれたのだというほかない。どうせ新しいのを買うのであれば、書き込みや付箋が大量になって移行するのが大変にならないうちに買ってしまう方がいいのだろうとは思う。少なくとも寝床に持ち込んだ本は棚に置くなりして嘔吐対策をしといた方がいいな、とは思った。猫達との付き合いは長いのに、なぜ今頃になってそんなことに思い至ったのかよくわからないが、これもきっかけだ。改善する。ってこの記事も全く本の内容に触れてないじゃないか。今読んでるのは「錬金術的コント」。初めて知る人物のことがどんどん出てきて名前だけ知ってるのがブルトンくらいという感じで唖然としながら読んでる。以上。
_ 最近政治家をはじめとしてネットでの発言が進退にかかわるような事例がたくさんあって、あちこちで夏を前にして祭りが始まっている。「口は災いのもと」とはよく言ったもので、ネット上の情報は言い捨てにできない怖さがある。ちなみに俺は過去の日記を見直してちょいちょい直したりもしてるくらいだが、それでも書いてるうちにタッチが荒くなってきて暴走するような局面は多々あるように思う。まあなんというか、ヒトの振り見て我が振りなおそーっと。そういえばローラの父が罪に問われたり天海祐希が入院したりして、福田彩乃が一時的にピンチだ!だが、彼女はどんどん次のネタを仕込んでいる。wktkラジオ学園の中では、おそらく意図的に番組の中で熟成させていると思われるのだが、篠原涼子が回を追うごとにどんどん似てくるのが面白い。俺も頑張って西田敏行のものまね練習するかな。「覚馬、控えよ」まだまだだな。