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けいりう堂日記

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2013-06-23 [長年日記]

_ NHKラジオ第1「音楽の泉」でチャイコフスキーの「弦楽セレナード」を聞きながらおかゆをすする日曜の朝。なんかいい天気すぎる。ご案内の皆川辰夫さんは「セレナード」と言ってた。国によってセレナーデとかセレナード(仏)、セレネイド(英)となって紛らわしいから、「いっそセレナーデに統一してくれ」と井上陽水は歌っていたのだった。こうやってちょいちょい嘘を挟んでおかないとガラスのアイデンティティが保てなくなるからな。日本語では夜曲とか小夜曲とか。たぶん「おれは直角」で西洋かぶれした家老のお孫さんが「これは西洋の楽器でぐいたーという!ウーン、イエシタディー」(←資料ほとんど無し)とかやっていたのはセレナーデの一種なのだろうと思う。ウィキペディア見てたら案内役・皆川達夫さんの面白いエピソードが載ってた。子供の頃のあだ名が「アブちゃん」。アブノーマルだったからなんだって!水島新司のあいつや北陽のあいつもそうなのだろうか。それでそのアブちゃんの原因が、能の「巴」を見て感動して能楽堂通いしてたからだというのだ。皆川さん13歳くらいの頃の話。その年頃の俺は宇野鴻一郎とかエマニエル夫人とかに感動してアブちゃんと呼ばれる素質だけは持っていたのだがなあ。「巴」はもちろん巴御前のことで、武人がシテである能が修羅能、その中でも女性がシテである修羅能はこれ以外にないということである。皆川氏は長じてのち、隠れキリシタンの宗教音楽「オラショ」の研究でイタリアの騎士となる(カヴァリエーレの勲章をもらった、というのはそういうことだと思う)。以上全部ウィキペディアを参照した。「巴」観賞したい。能の映像資料はなぜにこうも少ないのだろう。NHKオンデマンドにさえろくに所蔵されてないではないか。富士山よりもいち早くユネスコの文化遺産となった能であり、日本という長い歴史にまたがる精神圏の生み出す豊かな資源と見ることもできる。それなのに、触れる機会が少ないのでは広がりようがない。格調高い芸術の在り方と矛盾しない方法が見出されなければ、既得権益にしがみついてイノベーションを志向しない大企業病と同じで、いずれ死滅する他無い。もっと博物館やゆるキャラのサバイバル精神に学び多くの関連プロダクトを生み出すべきなのである。とちょっと大きなことを書いてしまったが、巴御前に戦場で組み伏せられて首を掻っ切られることを想像するとちょっとクンダリーニが覚醒しそうになる俺は今も昔もアブちゃんだ。

_ ボビー・コールドウェル "So Much in Love"

youtubeから。途中で終わっちゃってるけど。これ視聴してて思ったが、"So much in love"は"SUKIYAKI"とメロディラインが似てる。1990年の日本ライブ。たぶんパーラメントが提供してたやつじゃないかと思う。テレビで放映していたようで、インタビューが挟まれている。この時のボビーは"Carry On"(日本名は『シーサイド・センチメンタル』という。Carry Onってのは辛抱するとかいうような意味だろうか?ニュアンスがわからないが、確かにあまりおしゃれな感じはしない)というアルバムは自分でも好きなアルバムで、恋愛以外の重要なことを歌っていて自分で聞いていてもリラックスできると言っている。"Jamaica(ボブ・マーリィがこのアルバム発表の前年に亡くなっている)"や俺がかなり好きな"Sunny Hills"がその"恋愛以外にも重要なこと"を歌った代表的な曲とのことだ。そのあと割と有名な"Sherry"を含む"August Moon"を発表したのちしばらく(日本では)活動の目立たなかったボビーが"Heart of Mine"を発表して、健在であることを知ったのがかなり嬉しかったのを覚えている。おりしも俺が今の会社に入った年だ。そんな昔のことじゃないな、とも思うよ、深甚とな。


_ [特撮] 獣電戦隊キョウリュウジャー

怖いもののない奴は本当の強さに至ることができないと言われて迷うキング。仲間を失うことが自分の恐れることと気づいてさらに強くなるという訳だが、戦い方自体はそう変わっている様な気もしない。それよりも、今回のロケ地はやたらと緑が鮮やかだ。そういう季節に撮ったんだなあなんて変なところに感心してた。そしてキョウリュウグレー・鉄砕の正体はなんと井出らっきょ!というかツルッパゲ!今までにハゲのヒーローっていただろうか?ちょっと待て、今思い出すから。えーとえーと…つづく。

_ [特撮] 仮面ライダーウィザード

安っぽい魔宝石(魔法石、じゃなかったんだな)を見ててなんかに似てるなーと思ってたんだが、今わかった。福島の岩瀬郡鏡石町の銘菓・ぶどう氷である。これ見てくれに反して柔らかくてなかなか旨い。奥州路歩いてた時に宿で出たおやつ。今回のラストでだいぶビックリした。メデューサの妹(?)が仮面ライダーメイジに変身する。たぶん映画見た人はもうちょっとこの新ライダーのことを知ってんだろうな。変身ポーズがなんかアイドルの振り付けみたい。


_

デスクワークは眠気や邪念に対する戦いのようなところがあって、それはそれで厳しい仕事だと最近認め始めた。だから適当に流さなきゃいけない時もあるんだが、とにかく仕事のヒントになりそうもない邪念こそは流しておかなくちゃならない最強の敵である。でも捨て去ってしまうと素の自分が捗らなくなりそうな気もするので、今あたかも自宅にもう一人の自分がいるようなつもりで自宅にメールを送ることが非常に多い。今の俺の最大のメル友は自分自身なのだ。なんか友達がいないのを俺は孤独と二人連れだとうそぶいてる故・ジョルジュ・ムスタキか、同行二人のお遍路さんみたいなこと言ってるように聞こえるかもしれないな。そういうことじゃない。民主主義の隠れた敵であり最大の敵であるフリーライダーという生き方からどこまでも離れていきたい、社会に参加する上での自分の立場はそうでありたいと願っているのだ。理想的なデモクラットであるためにその主体である"民"から距離を置くことになるということに一面の矛盾を感じていないわけではないが、働いている間はこんな感じでやっていくより他に術がないようにも感じる。つまり俺には友愛に費やすリソースが余り沢山は無い。人間関係もできる限りシンプルにしていたい。

それはともかく、今この時間は自分は自宅の自分そのものなので、過去のメールを見ていると会社にいた自分から送られてきた多くが目に入ってくる。大半はくっだらないもので、これらにいちいち引っかかっていたら確かに会社にいる時間の半分以上はネットサーフィンになってしまうだろうな、と思わざるを得ない。そのくらいくだらなくて、これはいかに多くの邪念が沸いているかの証拠と見える。だかそんな中にはこの日記のヒントとなっているものも混ざっている。今日のキーワードは「南流石」だ。テレビ神奈川で朝7時ちょっと前だろうか、毎日やっている短い番組でカモン!カナガワンという真心ブラザーズの曲に合わせた印象的なダンスをやっているのが気になっていた。けったいな身振りも気になっていたが、ダンスの中に数度登場するちょっと年嵩の女性が何者なのかということがさらに気になっていた。存在感からは若いダンサー達の指導的な立場のように見えるが、これがかの振付師・南流石(命名:桑田佳祐)で、ダンサーたちは流石組のメンバーということらしい。それで流石組のHPを今見てるところ。ソロモン流というドキュメンタリー番組の映像にリンクがあるのだが、JAGATARAというバンドに参加していた時リーダー江戸アケミ(男)との出会いがあって今、「踊り造りは『情熱』と『衝動』」と彼女は語る。36歳にして死去した江戸アケミが、おそらくは現在も、今や55歳となる彼女を導き続けているのだ。このようにして人は人の中で永遠に生き続けることがある。自転車事故で死亡したフランスの作曲家、エルネスト・ショーソンが「たとえ1ページであっても、人の心にしみ透るものを書かずには倒れたくない」と手紙に書いたその言葉は、このようにして人の中で永遠に生きることを願った言葉ととることもできる。映像の後半は「ココロからダンス」(心と体をもじっている)の紹介。ミラーニューロンという模倣する能力に関連する神経(系?)を刺激して、ダンスの療法的側面の可能性を広げる活動を進めている。認知症の老人が表情を獲得する印象的な映像には、前衛芸術的なダンス(これは元にバレエの理論がありそれをさらに前進させたものと捉えることができる。実際フォーサイスのダンス理論の映像を見ると、その動きは肉体にとってはむしろ不健全な動きとさえ見られる)とはだいぶ異なるダンスの未来像が伺える。ミラーニューロンは心を扱う医学的、心理学的、哲学的領域において重要な概念のようである。特に人間において一種異様ともいえる発達を遂げた「共感」の能力にはミラーニューロンが強く関連している。心の機能を機械論的に解釈するとしても、それが生きた肉体から生まれることを意識して行うのとそうでないのとでは論の展開にも大きな相違が生まれることだろう。そんなわけで、ダンスには限らないが、俺も何か体を動かすことをやりたいと思うのだ。あとものまねの修業はもしかするとアンチエイジングに関連しているかもしれないと思い始めた。


_ だいぶ以前の、とはいっても今年に入ってからの日経のとあるページに、アイヌの口碑伝説に60mを越す津波の記録と思しきものがあったという記事があった。それで興味が出て以下のような論文にたどり着いた。まだ読んでいない。

_ http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_21/P121-136.pdf

_ http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_20/29-Takashimizu.pdf

_ 歴史津波に対する興味もなくはないが、それよりも、文字を持たなかったアイヌの人々の口碑伝説が記録として活用できるというその可能性のことなのである。昔起きたことを、あたかもそれが今起こっているように再現することで、実質的な未来から過去へのタイムトラベルが実現できる可能性があるのだとすると、そのようなテクノロジーはいわゆる科学の力だけでは実現することができず、民俗学をはじめとする伝承・伝説の中から過去の事実を復元する手法が"技術"として高い精度と再現性をもって自在に用いられるようになる必要がある。考証学がバーチャルリアリティにおける必修科目となること。これは容易なことではないが、挑戦する意義は大きい。たえず経営が問題となる博物館やその類似施設などにおいてはのどから手が出る技術だと思う。自分は、この技術によって、北海道の明治以前の古い道をたどることができないものかと考えている。それにはやはりアイヌの口碑伝説は有用だが、山丹貿易などを介してロシアや中国などにおいて記載された歴史書にもそのような記述を見つけられる可能性があるのではないかと思う。それらが、地形を読み解く技術と一緒になって、初めて文字による記録以前の北海道の歴史の道をたどることができるようになるのではないか。そういう今は淡い期待がある。俺の手には余りある事業となるだろうという意味で、淡いのである。


_ [テレビ] 「八重の桜」

ついに戊辰戦争のクライマックスとなった。これまでの新政府軍の進撃を見ていて、俺の歩いた奥州街道も二本松までは新政府軍の進軍に重なっているのだなあなんて思っていた。それで自分の会津への道は改めて遠いことに思いやられる。この間のGWは福島から米沢まで歩いたわけだが、ここから南下して檜原峠を越えるのが昔の米沢街道だが、綱木の集落より南は現在は廃道である。地形図を見ても沢だらけで迷いやすそうに見える。というかたどるべき踏み跡は期待できない。現地に行くまではわからない部分もあるが、この道を北から進んで会津に行くのは悲観的に思われる。一方南から檜原峠に向かう道にはまだ踏み跡があるようである。そこで、一端は二本松あたりから会津に向かい、途中米沢街道を北上して会津側から檜原峠に進み、可能なら綱木に向かって降りていくことが考えられる。それが無理ならば、綱木から檜原峠までの1kmほどの道は廃絶したものとして踏破をあきらめる他ない。この道をたどるのに草茂る夏は不利と思う。冬枯れが訪れて間もない頃がおそらくはたどりやすいのではないかと思うのだが、そんな好機に出かけることができるかどうか。ぜんぜん八重の桜の話じゃなくなった。


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