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2013-06-24 [長年日記]
_ 先週からちょっと会議がいくつかあって、準備を通じて仕事が進んでいく感じで若干疲れてきている。今日の会議の相手には、以前手前どもの方にちょっとした失礼のあった方が含まれていた。なのでお詫びの気持ちを表明するために会議中ずっと全裸で正座してたのでちょっと風邪気味。まあでも俺がずっと全裸で正座していたおかげで、会議そのものは割と和やかに進んだので良かった。
_ 昨日ネットで見つけたアイヌの口碑伝説に表われた歴史地震に関する論文を寝しなに少し読んだ。著者にはアイヌ語そのものを少なくとも限られた時間の中で理解し読み解く能力はないらしく、引用された口碑伝説というのはすべて二次資料である。二次資料であっても収録時期や場所などが明記されているかどうかにはある程度配慮しているらしいので、その姿勢自体に問題はない。問題は、その二次資料の読み解き方の浅さにあるように思われる。二次資料というからには、それを採取した人物の意図や志向、それが記録された時代背景、さらにはアイヌ語を日本語に翻訳する際の意味の変遷といったものに想像の力が働かされなくてはならない、この意味で、この論文はあまりも理系的である。そこが問題だ。多かれ少なかれ何らかの作意があるであろう文学的資料に対して、それがあたかも客観的事実の忠実な記録であるかのような捉え方をするのは、そのような資料の読み解き方としては素朴的に過ぎ、明らかに間違っている。そうして、資料に書かれた歴史地震の可能性のある個所に対して、それが歴史地震であるかどうかを判別するには、そこにあらわされた記述が、起こり得ることかそうでないかというこれまた即物的な指標でのみ判定されるのである。この著者は、もっと民俗学的・文献学的なアプローチに親しむべきだった。伝承の中に記載されることがらには、無意識の領域に半ば属するような、民族の心的事実というべきものが含まれている。それが非現実的なことを事実のように記載していることを、まるで科学論文の捏造事件と同様でもあるかのように批判的に解釈することは、とても20世紀を越えた時代の学術論文とは思われないのである。さらには、偽書でさえ学術的研究の対象としてしまう文献学・古文書学の貪欲さ・ふてぶてしさにも学ぶべきものはあるだろう。このことはしかし、歴史災害を研究する分野においてはまだ試されいない方法論が数多くあるということをもはからずも物語っているのである。ただ、昨日読んだ論文は2010年より古い。研究の最前線ではまたなにか新たなことが始まっているのだろうと思う。
仕事はかどってるならよいではないのか? <br>全裸で正座とは・・・おぬしもやるなぁ〜
クーラー切っとけば良かった。ただ電話会議だったので手前どもの謝意が相手先に伝わったかどうか。。。