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2005-08-04 [長年日記]
_ [読書] 玄侑宗久「水の舳先」「中陰の花」
郡山の博物館・文学館で玄侑宗久という人を知ったので、その著作『水の舳先』『中陰の花』を入手。前者は図書館で借りて後者は文春文庫で買った。この現役の坊主である芥川賞作家は安積高校出身。まずは『水の舳先』を読了。あちこちの寺を訪ねる機会が多い私には現役の坊主の著作は興味深く読めた。
寺には、史跡、坊主の生活の場、宗教的奇跡に関係する(あるいはそれを予感させる)場、公園的な場、墓所を管理するための場などといったいくつかの面があると思うのだが、現代の寺には公園的な性格は希薄であり一般者にとっては墓所の管理所としての意味合いが強いかもしれない。史跡として以外の全ての性格を失った寺が廃寺であるが、廃寺のことはとりあえず玄侑宗久氏の著作とは関係無いだろうな。
2005-08-05 東大駒場へ /横浜中央図書館へ/放送大学、後期の科目登録 [長年日記]
まだ夏休みなのだけれど仕事の関係で東大駒場キャンパスに行く。数理科学図書館に文献複写に行ったのだ。2回目なので勝手知ったる、と言う感じ。第一回の高校卒業認定試験をやっていた。
_ [郷土史] 横浜中央図書館へ
渋谷でインド料理のバイキング1100円を食してから横浜にとんぼ返り。中央図書館に行って宮城県の奥州道中にまつわる調査を開始した。宮城県の入口は南端の白石市。「白石市史」という分厚い本が出ている。単に街道関連の本ではなくてこういった本を参考にしてチェックポイントを挙げておくのは、来るべき-いつ来るのか良くわからないが-北海道の歴史の道を自ら構成して辿るための練習のつもりが半分、宮城県歴史の道調査報告書の内容が余り充実していないのでそれを補完するのが半分。だが、白石市史を読破するだけでも大変だし、中世以前の考古遺跡も400を越える。宮城を歩くのは恐らく9月なのだけど、それまでに調査が終わるかどうか…
ついでに、駒場で入手した東大新入生向けの広報に載っていた、『神仏習合』(岩波新書)を借りようとしたら貸し出し中だった。たかだか8年ほど前の本なのにどうやらもう絶版らしい。こういうことがあるからついつい読む時間が無くっても気になる本は買ってしまうので本の置き場が無い。
_ 放送大学、後期の科目登録
試験が終わって安心しているうちに科目登録の締め切りが近づいてきた。以前これを忘れていて半年休学していたのだった。今回は経済学入門と上代の日本文学を取ろうと思う。どっちも放送は日曜なので、後期はセンターで受講することが多くなると思われる。前期の国文学の試験がまずい出来だったので、上代の日本文学はちょっとがんばって、テキストを最低3回は通読してかつ実際に作品に触れる機会を増やしたいと思うのだが。
わたしには今のところ半期に2科目が精一杯。もっととってる人は尊敬してしまう。
2005-08-06 「朝顔の音」/「万葉集」と漢文 [長年日記]
_ [読書] 玄侑宗久『朝顔の音』
文春文庫『中陰の花』収録の『朝顔の音』を読む。強姦と新生児の死体遺棄という異常な事件。霊媒師。山梨、富士山。
今日までに3つの話を読んだ。「左右の眼の大きさの違う」表情というのが何度か現れたことに気が付いた。それは不動明王の表情だったり死んだ子供の霊魂をおろす霊媒師の表情だったりする。
_ [読書] 『万葉集』と漢文
街道を歩いてさまざまな古跡に出会うたびに、自分に古典の素養があればより味わうことができるのに、と思う。放送大学で主に「人間の探求」の講義を取っているのはそういう理由で、書誌学、考古学、博物館学、国文学など受講した。が、身についているとはとてもいえない。やはり古典には日々親しむことこそ肝要なれ、と思い立ち、以前『古事記』は読んだから、記紀万葉というくらいなので万葉集を読み始めた。万葉と言いながら4500種余りの収録だが、それを読み通すこともなかなかつらかろう。岩波文庫の佐々木信綱校注のものと講談社学術文庫の「万葉秀歌」の第1巻を購入。
もうひとつ、漢文の白文が読めるようになりたくて、これは岩波ジュニア新書の『漢文のよみ方』が良いらしい。ネットで購入した。
一日に和歌と漢詩を一つでも二つでもなるべく毎日、と思うのだが。いつも志”だけ”が高いので、この先どうなるか。
2005-08-07 久し振りに家で食事作る [長年日記]
_ ラム肉を買ってジンギスカン。ご飯は一食に一合。ほかに鳥のから揚げと餃子はお惣菜を買ってきて、NHK『義経』見ながら食する。これはこれで至福。
2005-08-10 会社帰りに図書館。/万葉集第16首 [長年日記]
_ [読書] 会社帰りに図書館
会社帰りに図書館で宮城県白石市史第2巻を調べ読み。蔵王水系の淡水魚の生態と漁の仕方について。直接歩き旅には関係無さそうなものの、読み始めると面白い。この次は植物に関して。これは多少は関係してくるかもしれない。森林や草原など歩くときに思うのは、もう少し植物に関する知識があれば楽しかろうということ。大抵両手は、地図・デジカメ・ペン・GPS・野帳などでふさがっているから、さらに図鑑を携帯するのはちょっと大変なことだ。
_ 第16首
冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ
さかざりし 花もさけれど 山を茂み 入りても取らず
草深み 取りても見ず
秋山の 木葉を見ては もみちをば 取りてぞしのふ
青きをば 置きてぞ歎く そこし恨めし 秋山吾は
(額田王)
2005-08-14 『神仏習合』(読了)/『日本縦断徒歩の旅』/いがらしみきお『ペケペケペケル』1,2/近藤ようこ『絹の紐』 [長年日記]
_ [読書] 『神仏習合』(読了)/『日本縦断徒歩の旅』
『神仏習合』を読了。いろいろと知らなかったことを知らされて勉強になる。
知らなかったこと:(1)八世紀後半から九世紀前半にかけて、日本の神々が自らの罪を悔いて仏道に帰依する動きがあった。神であることが罪であるというのである。神宮寺を建立する動きがこれに続く。(2)律令制の支配は各地土着の神話信仰を全国的にまとめあげることでなされた。中央から班給される幣帛(みてぐら)を介して行われた。(3)最終的には天照大神さえ仏道に帰依し、その本地は大日如来とされた。(4)御霊信仰は奈良末から平安初頭に始まり、政変を企てたとして誅された橘逸勢や早良親王(後、祟道天皇と追称される)などに対する共鳴と当時の災厄の原因をその祟りと考えることから始まる。天神信仰や祇園祭がその頂点。(5)宇多法王は菅原道真の祟りを避けるために息子二人を密教僧とし、その目的は成功した。
_ 『神仏習合』は岩波新書の赤で、もっと歴史や民俗に関わるものが読みたくて物色しているうちにふと『日本縦断徒歩の旅』(石井文洋著)というのを見つけ、居酒屋で一杯やりながら1/4ほど読む。2003年著者65歳の時に宗谷岬をスタートし半年ほどで沖縄喜屋武岬に到着。ごく最近の歩き旅の記録であり、トンネルの中の歩きがイヤだとかコンビニは歩き旅のオアシス的存在であるとか、共感できること、非常に多い。歩き始めたきっかけはいろいろあっても結局歩くことが好きだから、とのこと。日本海側を歩くルートの総計は3300kmほど。私は98年頃からおちこちの街道行脚を始めて今総計2000kmを越えている模様。「2センキロ」を「2メガメートル」なんて言ってみたりすると膨大な距離を歩いたような気になる。
2005-08-15 石川文洋『日本縦断徒歩の旅』(読了)/『姑獲鳥の夏』/コガネムシが… [長年日記]
_ [読書] 石川文洋『日本縦断徒歩の旅』(読了)
午前中なんとなく読み始めて読了してしまう。エッセイ風の現代文はあっという間に読めてしまう。調べ読みする必要がないせいだろう。学術書もそんなペースで読めたらいいのだが。
著者は25万分の1の道路地図を持って国道を歩いた。だから過去の歴史よりも現在の日本に眼が行く。ジャーナリストである著者の興味をひくものは、災害や公害の被害のあととそこからの復興の様子・地元の子供の挨拶といじめや引きこもりの問題・自動車本位の道路のあり方・軍事基地・ポイ捨てなど。そしてウォーキング前後の体調の変化。
私の歩き旅はこれとは随分違う方向に進みだしている。吉川弘文館の『街道の日本史』をリアルで独りでやろうとしている、と言う感じ。土地土地に今を生きる人々よりも、古跡や民俗や地形風景との対話を楽しみたいという想いが強い。
_ 『姑獲鳥の夏』
お盆休みも最終日と言うことで、『姑獲鳥の夏』を見に行く。横浜ゲントの109シネマズMM。明日から仕事でなければレイトショーでも良かったんだけど、前売りを買って18:40からの回で見た。実相寺昭雄のものすごさが良く言われるが、わたしにとって実相寺監督とはモロボシダンとメトロン星人がちゃぶ台をはさんで対話する忘れられない味のあるシーンを撮った監督として意義のある人。関口君と京極堂が卓を挟んで対峙している(関口君は京極堂の前ではほとんどしゃべらせてもらえていない、というのは良かった)シーンでそんなことを思い出す。CMで見かけた、いしだあゆみが奇声を発するのシーンは別段怪奇現象じゃなかったので笑ってしまう。原田知世は得がたいキャラクターには違いないんだけれど、演技なんかしないで雰囲気だけで勝負した方がいいのじゃないかとも。それにしても京極夏彦、出過ぎ。でも演技は旨いなあ。きっと独りで小説の台詞とか声優バリにしゃべったりしてるんじゃないかなあと。
_ コガネムシが…
どういうわけか部屋にコガネムシがいる。部屋を良く見たらベランダの窓が開いていた。あわわ…
しかしこの分ならそのうちカブトムシとか入ってくるかも。
万葉歌の書き取り、25首を数える。
_ み吉野の 耳我の嶺に 時無くぞ 雪はふりける 間もなくぞ 雨はふりける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を
2005-08-16 『白石市史』2 /文庫本カバーのメモ [長年日記]
_ 気がつけば虫の声なり 図書の庭。
_ 山に里に公園に博物館にと日照りの下雨の中を歩き回った夏の熱狂が去って行こうとしている。立秋も過ぎた。図書の庭はこれから、とある人々の寝床となり、そして歩き旅は深い趣に満ちたものとなっていくのである。
_ 文庫本カバーのメモ
野帳を携帯し忘れたときにちょこちょこっと文庫本のカバーに思いついたことを書いていることがある。あとでほとんど読めなくなることが多い。
今読み返している『ドン・キホーテ』のカバーにこんなことが書いてあった:
「96.3.18ドン・キホーテ、美しきドゥルシネーア姫の、恋のやっこ」
「全てに意味があった。道路の舗装にも。なんと言うことだ」
「SEXの快楽は女であった方がより深く(注:これは成田アキラの漫画に書いてあったことで、わたしには男女の快楽を比較する術はない)、人生を楽しむためには子供であったほうがより楽しめる。大人の男ってのはなんと悲しい存在なのだ」
酔っ払ったときに浮かんだ言葉は醒めて読むと手がつけられないほど馬鹿な文句だ。
2005-08-17 『白石市史』2(更に続き)-横浜中央図書館 [長年日記]
_ [読書] 『白石市史』2(更に続き)-横浜中央図書館
今日も横浜中央図書館へ。宮城県白石市の植生に関する調査。地図を持っていったので、奥州街道から遠く外れた部分の調査は割愛した。丹念に読めばそれなりに面白いはずなのだが。白石の北東部には菊面石と呼ばれる球状閃緑岩を産する場所がある。これは天然記念物。その地を訪れるべきか、その前に博物館の類を訪れるべきか。こういうことが楽しい。市史の文章は必ずしもプロの文筆家や研究者が書いているわけではなく、ときどき方言による記述がある。「そのうち」を「ほのうず」などと言う。母方の爺さんが宮城出身だったので懐かしい。
図書館帰りに野毛町の方に向かった。野毛町は以前東横線の駅のあった頃にはよく行った場所だが、廃止されてから余り寄り付かなくなった。久し振りに萬里へ行き「秘法十九番」こと中華ランチを食する。この萬里の向い側に、「栗駒山」という仙台牛を出す飲み屋があることを知った。今日これが特別の意味を持って私の目に飛び込んできたわけは、栗駒こそ私の爺さんの出身地だったからだった。こういうのをシンクロニシティと言うのだろう。もちろん、今までにも店の前を通っていたから店の名前は眼に入っていたには違いない。今度行ってみよう。
_ 菊面石。
大河原地方振興事務所のHPで菊面石(球状閃緑岩)のことを調べた。「ただし、この場所では球状閃緑岩(菊面石)そのものはみることができません。球状閃緑岩(菊面石)を見たい場合は、白石市内の「いきいきプラザ」内に展示してありますので、そちらへおいで下さい。」
とのこと。
2005-08-18 NTV「クリック」録画 [長年日記]
_ 信頼できる情報筋からの情報に基づいて録画。8/21放送予定の資生堂の番組の前振りという感じで栗ちぃが3分ほど登場。子供の頃はモデルを目指して1日に牛乳2リットル飲んでたと言う。かーいいなあ。21日めちゃ楽しみ。
2005-08-19 / [長年日記]
_ 久し振りに同僚とカラオケに。
しかしながら忘れていた。この面子はアニソン・特ソンを得意とするメンバーであったのだった。「マジレンジャー」のED歌ったくらいでひいちゃうような者共では無かったのだ。
みんなの歌を聞いていてつくづく菅野ようこはすごいんだなあと思った。
まてよ、「Nekomimi Mode」なら皆ドン引きしてくれたかもしれないな。
追記:トモフスキーはカラオケが無い。
_ [読書] 『旧石器遺跡捏造』(読了)
『旧石器遺跡捏造』河合信和著、文春新書297。読む。
藤村新一という「神の手」は四半世紀に亘って旧石器遺跡の捏造を続けた人。この行為にどんな動機付けがあったのかは、調査に関わった研究者には全く理解ができず、捏造であると言う疑惑ははなから抱かれにくいものだったと言う。この行為にいたる動機は藤村新一氏固有のものだったのだろう。誰も見出したことの無い、それまでの考古学の定説を覆すような新発見をすること、「藤村さんが来ないと(石器は)出ない」というどう見ても不自然なはずの状況で、自身は本当に神であるかのように感じていたのか。
いずれピルトダウン人に関する本も読みたいと思う。
2005-08-20 『月は地獄だ!』(再読・読了) [長年日記]
_ [読書] 『月は地獄だ!』(再読・読了)
猫たちがどこからか引っ張り出してきたこの本が目に付いたので、もう一度読んでしまう。著者ジョン・W・キャンベルJr.。訳者矢野徹。以前は96年2月頃に読んでいた。月調査隊が帰還用ロケットの事故のために帰れなくなり、限られた資源の中で地球からの救いを待って生存の努力をする。1950年の小説。96年に読んだ当初は日記風の文体に興味をそそられたようだ。この小説に出てくる科学的な記述がどれほど正しいのか(1950年の当時において)を考証するのは面倒なことで、どれほどのリアリティがあるのかにこだわるとこのようなSF小説を楽しむことはできなくなってしまうのだと気づく。書くほうはもっと大変だろうが。
2005-08-21 『犯罪心理学入門』/図書館へ/TOKYO美人物語 [長年日記]
_ [読書] 『犯罪心理学入門』(読了)
福島章著『犯罪心理学入門』(中公新書)を読む。クレッチマーの多次元診断・現在の犯罪の特徴など面白く読めたのだが、自分の過去に犯したささいではあるが罪悪感の伴う行為のことなどふと思い出し、途中読むのがつらくなったりした。環境によっては私もこの本の中の一事例であってもなんら不思議は無い。
_ 図書館へ。
横浜中央図書館へ。今日は野毛の子之大神の祭礼で、人が出ていた。動物園通りを歩いているととある木陰に「野毛子之大神社跡地」なる説明版が出ていた。昭和20年5/29の横浜大空襲の際焼けたと。再建された社は今伊勢山皇大神宮の境内にあるとのこと。この説明版の先、野毛大通りとの交差点には近代水道の遺跡がある。図書館では、目的の本が見当たらず。クレッチマーとシュナイダーの犯罪心理学の本を借りた。1Fの受付のところで、図書館カードの申込書を何気なく見ると、記入例の氏名が「野毛さくら」だった。しゃれた名前だ。彼女は老松町の中央団地に住んでいるらしい。
_ [栗山千明] TOKYO美人物語
すごく楽しみにしていた「TOKYO美人物語」(NTV22:00-)だったが、栗ちぃあんまり出なかった。見る前オノ・ヨーコにインタビューなんてすごいなあと思っていたら、別取りだった。でもまあいいや。
2005-08-22 『神々の汚れた手』/カメラの修理 [長年日記]
_ [読書] 『神々の汚れた手』
『神々の汚れた手』奥野正男著、梓書院刊、2004。読む。
またしても前期旧石器遺跡捏造事件を扱う本を読んでいる。学生時代から何らかの"研究"と呼ばれる活動に関わってきた(もっとも研究者としての業績は微々たる物で現在に至る、なのだが)自分にはいろいろと考えさせられる。先に読んだ犯罪心理学の本とあいまって、研究者の倫理とは何かと自戒せざるを得ないと共に、このようなことの起こる背景や動機というものに興味が沸いている。ゴシップ好き、ということに過ぎないのかもしれない。
ところで問題は藤村新一氏に捏造の"理論的根拠"や"学術的な価値"を与えた岡村道雄氏をはじめとする学者たちがいたということにあるようだ。本書の著者はそれらの人々を糾弾する目的で書かれており、実際に告発するも不起訴となる。
著者のHPを見たら、この本は毎日出版文化賞を取ったとある。毎日新聞はこの問題と深く関わっていたわけで、何だか妙な感じがする。
_ http://www.okunomasao.com/
_ かかるシリアスな問題に下手な関わり方をすると自分の精神状態に悪影響を及ぼしかねないな(そういう性分だと言うことが最近わかってきた)、などと警戒しつつも、2004年の1月に毎日新聞に載ったという藤村氏のインタビュー記事を探しに明日の会社帰りには図書館へ行こうかなどと考えている私は俗な野次馬に過ぎない。
_ カメラの修理
以前の歩き旅で線路の上に落っことして壊れたデジカメの修理見積もりが来た。18500円。中古を買うか修理してもらうか微妙な金額に思える。私の手の大きさにぴったりフィットしているのは気に入っているし、数年にわたって私の街道行脚の友であったから愛着は強く有る。やはり修理してもらうか。。。
2005-08-24 古書に鼻毛。 /足柄の古道/『創聖のアクエリオン』DVD Vol.2 [長年日記]
_ 古書に鼻毛。
日本の古書屋経由で申し込んだ古書が今日届いていた。ぱらぱらと中身を見ていると、見開き2ページにわたって15本ほどの鼻毛がくっついている部分が。古本だからこういったリスクはあるものではあるだろうが、鼻毛を抜き抜き読んでいたかつての持ち主が想像されてしまい、大変嫌な気分になる。古書店には返本を申し出たが、どうなるやら。
_ [矢倉沢往還] 足柄の古道
宮城の歴史を調べるのに図書館通いが続くうち、私の興味はまたいろいろなところへと漂泊している。奥州街道に出かけるのが距離的につらくなってきたので、どこか手近なところをと物色していたら、足柄道(矢倉沢往還)がでてきた。「更科日記」の家族もこの道を通り、足柄では山奥から出てきた遊女たちに深い思いを抱くというくだりは映像のように心に残っている。
南足柄市の旧街道に関して南足柄市教育部に問い合わせたら、早速参考資料を教えてくださった。
1 冊子名:改定郷土南足柄
編集・発行:南足柄市教育委員会
発行年月日:昭和57年3月15日
2 冊子名:もうひとつの東海道-古東海道と矢倉沢往還-
編集・発行:南足柄市郷土資料館
発行年月日:平成13年10月16日
3 冊子名:あしがらの道-矢倉沢往還と足柄古道-
著者:本多秀雄(元南足柄市教育長、現文化財保護委員長)
発行:神奈川新聞社
発行年月日:1993年10月30日
1と2は現在でも南足柄市教育委員会から入手が可能とのことだった。2はおそらく郷土資料館の過去の展示に関わる資料と思われる。
地方自治体や教育委員会が私の歩きに情報をくれるのだ。なかなか心強いと思うと同時に、成熟期の日本にとって各地方の教育委員会の責務はますます重大になっていくのだなあなどと思うのである。
2005-08-26 『精神病質人格』 [長年日記]
_ [読書] 『精神病質人格』
先日読んだ犯罪心理学の本の参考書に挙げられていた『精神病質人格』(クルト・シュナイデル著、みすず書房刊)を読んでいる。1954年の出版で旧仮名使いだが2/3ほど読んでいるうちに眼になじんできた。
精神病質人格とは「その人格の異常性を悩みとし、またはその異常性によって利益社会が悩むような異常人格である」と書かれており、精神病とは区別されている。過去の研究の概観を述べているところは難しいが個別の事例の部分は抜群に面白い。たとえば、食事のメニューを必ずアルファベット順に食べる強迫状態の人。彼の食事ではたいていスープが最後の方になるようだ。
これらの異常人格の身近な具体例を見るには、会社の同僚たちをそういう眼で観察すればよい、ということがわかる。勿論私自身も何らかの「精神病質人格」なのであり、そうでない人間は確率的にほとんどいない、ということになると思える。
2005-08-27 神保町へ /「永仁の壺」/『ファンタジックチルドレン』DVD第6巻 [長年日記]
_ 神保町へ
一月振り位だろうか、神田神保町へ。目指す心理学書は見当たらず、彼方此方の古書店を巡るも収穫は特になし。愛する神田伯剌西爾でコーヒーとガトーショコラ。夕食は地元に戻ってから取った。心理学書はネットで探すことにしよう。
_ [読書] 『永仁の壷』
図書館から借りてきた『永仁の壷』(村松友視著:おっと"視"の字の偏は示なんだが)を読み始めた。横浜市立図書館で借りられる本は6冊までで、現在6冊借りていると言うのに、予約していた本が今頃になって用意できたというので、最低一冊はさっさと読んで返してしまわねばならない。
村松さんの作品を読むのは『海猫屋の客』を読んだ97-98年頃以来ということになる。
海猫屋というのは北海道小樽市にある喫茶店と言うか料理店と言うか、ライブもやったりする大きな倉を改造した店で、道内に住んでいた頃には特に行きたいと思っていなかったのが、横浜に越してきて7-8年ほど経った頃に小樽や函館の和洋折衷建築や倉などを痛切に見たくなって、実家にも告げずに密かに新潟からフェリーに乗って大晦日の3日前ほどに出かけた際に初めて行ったのだった。早朝の暗いうちに小樽に着いて、おぼろげに記憶していた日銀の曲線の勝る建物の前の凍った道を滑りながら海に向った。雪の無い土地の暮らしが長くなって、急坂を滑って転んだら海まで転がり落ちていくのではないかと言うほど雪道の歩き方を忘れてしまい、現地でトレッキングシューズを買った。ウォーキングにはまるきっかけになった箱根歩きは多分明けた年のゴールデンウィークにこの靴を履いて、だったと記憶する。
まあそんな思い出が『海猫屋の客』にはあって、わたしの放浪癖もそこから始まったということで村松さんは私にとってはそういう特別な作家なのだが、熱烈なファンということではなく『時代屋の女房』を読んだか読んでないかも記憶があやしい。
『永仁の壷』は贋作事件を扱った書き下ろし作品で、昭和11年に捏造が発覚したこの事件に絡む人物たちは多くこの世を去ってはいるものの、まだすっかり忘れ去られるほどの時間を経てはいないと思う(が、私がこの事件を知ったのはほんの数日前のことで、前期旧石器捏造事件を調べているうち何かのついでに知ったのだったが)。そういう最近の事件を、作家はどのように小説にするのかという興味がこの本を読もうと思ったきっかけ。主人公は村松氏自身と思われる「私」。その「私」が、「私」を主人公とする小説をこの小説の中で書いている。
"私の小説の中の私が書いた小説の中の私"、に行き当たり、一体何層上に上れば現実の層に戻れるのかと不安になってしまった。まあ作のテーマとは関係が余り無いことだ。
真偽を問うテーマを扱う小説は、(『ヴァリス』関連作を書く前のP.K.ディックの作品がそうだったように)作家と登場人物と読者それぞれに対して、それぞれの存在の真偽を問わずにはおかないものとなってしまうようだ、と思った。私が前期旧石器遺跡捏造事件を辿りながら感じていたのも、全くそのような危うい気分だったのだと思う。この気分にとらわれてしまったら最後はデカルトのたどり着いた境地までたどりきらねば収拾がつかないのかもしれない。あるいはこれをきっかけにルーツ探しなんかはじめたりもしかねない。しかし、いつでも戻ってこれるように用心しなくては。
_ [漫画・アニメ] 『ファンタジックチルドレン』DVD第6巻
『ファンタジックチルドレン』DVD第6巻見る。ヘルガがティナとしての記憶を取り戻し、物語が結末へと急行していく。トーマの秘密も徐々に…。「ティナ」と言うとどうしてもティナ・ターナーの顔が思い浮かべられてしまうのは仕方ない。そう言えば大学の頃、学食のラーメンコーナーにティナ・ターナーに似たおばちゃんがいたっけ。そこで良くジャンボラーメンを食べたんだった。どうでも良い記憶だが。
来月の第7巻でとうとう終了、だよね。DVDは欲しいのが一杯あるんだよなあ…今放映中の『ガン×ソード』も買っちゃうんじゃないだろうか。すると当分月に3本のペースが続いてしまう。本代も馬鹿にならなくなってきたしなあ。なるべく図書館を利用するようにしているけど、良い本は、たとえ数年に一度しか見なくたって、どうしても参照したいときと言うのがあるので手元においておきたい。
だから人に本を貸してなかなか帰ってこないとすごく腹が立つんだよな。そのくせ狭量な人間と思われたくなくて督促できないストレス。そんなことにストレスを感じてさらにストレス。金と一緒で本の貸し借りは個人間ではやらないのが吉、だな。結局また本のことを書いてしまった。
2005-08-28 『永仁の壷』 /『あしがらの道』 [長年日記]
_ [読書] 『永仁の壷』(読了)
朝方まで読んであと2章を残して眠ると、気がかりな夢を見た。目覚めると8:30。久し振りにエウレカセブンもヒビキも見逃した日曜の朝。朝食を整えて続きを読みながら食べる。全体を貫いている真偽の問題はついに銭湯の壁の絵にまで…。
小説には終わりがあり、良い書き手の使命として、そこで読者に解決を与えなくてはならない。作者はこう思う、これは作者の想像に過ぎないが、という前置きつきで多少の強引さをもって結論を導く必要があるのは止むを得ないことかも知れず、それはもう小説という形式そのものといえるのかも知れない。その結論に、どれだけ読者の共感を集めることができるか。致命的な考証のミスは無いか。事実の及ばない部分に自由な想像や自分の考えが十分に盛り込まれているか。そして事実と虚構との間に齟齬は無いか。わざとらしくないか。−少なくとも事実をモチーフにした小説はそのようにして書かれるもののように思える。もちろん、文章にしたいと言う強い思いが前提にあってのことだろう。
というわけでこの本を図書館に返して新しい本を借りに行く。
_ [読書] 『あしがらの道』
先日南足柄市の教育部で教えていただいた『あしがらの道』という本を求めて神奈川県立図書館へ出かけた。これは新書版の本で、そこいらの古書店を探せばありそうな気もして、図書館から伊勢佐木町に歩いていった。途中藤棚などという地名に出会い、不意をつかれたような気分になる。ちょっと遠回りして伊勢佐木町の古書店を幾つか廻るも目的の書は無し。久し振りに喫茶店「ぽえむ」に。フレンチとモンブラン。モンブランは微妙。地元近くの飲み屋で6000円余り飲む。久々に飲んだくれの日曜の夜だ。
ところで足柄道。矢倉沢往還とも呼ぶこの道は大山道とも呼ばれた道で、赤坂から渋谷道玄坂を通り二子玉川から伊勢原・秦野など通って足柄に到る。伊勢原・秦野というのは私のウォーキング歴の結構初期の道であって、大山に登ったあとに鶴巻温泉まで降りていって日帰り入浴するのが楽しい、という記憶に包まれたところ。だから矢倉沢往還を歩く旅は、そのような楽しい記憶を辿る旅ということになるのだ。『更級日記』にあらわれた足柄の遊女の跡は辿るべくもないだろうが。ちなみにこの本の題字は児玉幸多先生の筆であった。
2005-08-30 『白石市史跡のまちガイドブック』/『抜取検査の考え方とやり方』 [長年日記]
_ 日曜の深酒で弱った胃が少し調子良くなったら、欝的な気分も改善した。それでまずは白石市観光協会から送ってもらった『白石市史跡のまちガイドブック』を会社に向かう電車の中で読む。『白石市史』特別史を結構丹念に読んでいたおかげで、出てきた名所旧跡の中にはもうすでに行く前から馴染み深く思われるものがいくつも。たどり着いたら冬になっていそうな気もするのだが、ぜひとも白石には最低2日かけてあちこちに行きたい。弥二郎のこけしとか鎌先温泉とか材木岩とか。
_ 会社帰りに放送大学学習センターに行き、『抜取検査の考え方とやり方』(日本規格協会)を借りた。1965年初版で、以後少なくとも20年ほどは読み継がれて来たブックレット。私の父母の世代に相当する人々が現場の作業長だったりした頃に読まれたものだ。本の装丁も当時っぽい感じがする。自動車整備工だった父が青年の頃に読んでいた実務書とよく似た装丁。抜取検査の理論に関する良書は今や手に入れることが難しい。こういった啓蒙書や草の根のQC活動などで過去に手に入れられた品質管理の技術は、その理論的根拠を正しく伝えること無く現場の人々に口伝のように引き継がれ、一方その理論をより現実の世界を表現できるようにリファインする努力はあまりなされていないのではないのか。それで、本来は十分な理論的根拠のあった上で現在にも通用している伝統的検査方式が、その根拠が今では非科学的なもののように見えている、というのはありえることだ。文献を正しく抑えておかねばQCは民俗的行事のように、その本来的意義をたどることを著しく難しくしてしまうだろう。丁度民俗行事の源流に、それが行われ始めた当時の最新の学問的根拠がおそらくはあったであろうように。本書には、全数検査をチェックするために抜取検査を行うことも重要である、と書かれている。なんだか眼からうろこが落ちるような気がした。
2005-08-31 抜取検査/「コンティニュー」/『改訂 郷土南足柄歴史をたずねて』/『もうひとつの東海道』 [長年日記]
_ 抜取検査
昨日借りてきた抜取検査の本を3冊ほど読んで、何を検討するべきかがだんだんわかってきたような気がしてきた。だけどまだすっきりしないのは、製品ロットの、或る検査による合格率が、ロット不良率に対して一義的な関数「であるべき」という理念。もちろんそれは理想的の場合であって、それがいかなる条件で成立するのかを明確にせねばならないのだと思う。
_ [栗山千明] 雑誌『コンティニュー』
『コンティニュー』という雑誌に、"ちぃ"が載っているというので購入。グラビアを見てなんだかもう、やたらとイトオシサがこみ上げてくるんである。思わず涙ぐみそうになったのは、いわゆる「感情失禁」という老化現象であろうか(この言葉は近頃読んでいる老人心理学の本で知った。しかし、失禁とはなあ。苦笑を禁じえない言葉だ)。
それはそうと、そろそろ『スクラップへブン』の前売りも買っておかねば。
_ [読書] 『改訂 郷土南足柄歴史をたずねて』/『もうひとつの東海道』
南足柄市教育委員会から『改訂 郷土南足柄歴史をたずねて』『もうひとつの東海道』という2冊の資料が届いた。前者は図書館で見ていた。巻末に地図がある。後者はH13年に東海道宿場制400年を記念して郷土記念館でひらかれた特別展の資料。ちょうどその年、私は品川歴史館の同趣旨のイベントでその前年に歩いた東海道の記録の一部を紹介していただいたのだったっけ。自分が生きているうちに自分の記録が博物館資料になるということの光栄は、放送大学で博物館学を修得した今でこそ大変名誉なことなのだとつくづく実感していたりする。まあタイミングが良かったと言うことなのだなあ。
奥州街道も遠くなってきたから、これに平行して、東京赤坂を基点として足柄を通る矢倉沢往還に出かけようと思っているのである。そして年末は京都から大阪に向う道へと思っている。それはまたしても長大な山陰道への幕開けであり、その旅の始まりは憧れのミンパク、国立民族学博物館への訪問で始めたいと思っているのである。